熱意
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真贄《しんし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)事|恒《つね》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)赫々《かく/\》
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 真贄《しんし》の隣に熱意なる者あり。人性の中に若《も》し「熱意」なる原素を取去らば、詩人といふ職業は今日の栄誉を荷《にな》ふこと能はざるべし。すべての情感の底に「熱意」あり。すべての事業の底に熱意あり。凡《すべ》ての愛情の底に熱意あり。若しヒユーマニチーの中に「熱意」なるもの無かりせば、恐らく人間は歴史なき他の四足動物の如くなりしなるべし。
 労働と休眠は物質的人間の大法なり、然れども熱意は眠るべき時に人を醒《さ》ますなり。快楽と安逸は人間の必然の希望なり、然れども熱意は快楽と安逸とを放棄して、苦痛に進入せしむることあり。生は人の欲する所、死は人の恐るゝ所、然るに熱意は人をして生を捐《す》て、死を甘受する事あらしむ。人間の事|恒《つね》に「己」を繞《めぐ》りて成れり、己を去つて人間の活動なし、然るを熱意は往々にして「己」を離れ、身を軽んじて、「他」の為に犠牲とならしむる事あり。愛国家の心霊を鼓舞して、天下蒼生の為に、赫々《かく/\》たる功業を奏せしむるものもこの熱意なり。忠臣君の為に死し、孝子親の為に苦しむも、この熱意あればなり。恋人の相思も、讐仇の怨悪も、その原素に於ては即ち一なり。人間を高うするものも、人間を卑《ひく》うするものも、義人を起《たゝ》すものも、盗児を生ずるものも、その原素に於ては、この熱意の外あることなし。
 熱意とは何ぞや。感情の激甚に外ならざるなり。感情の中の感情たるに外ならざるなり。且つ湧き且つ静まり、且つ燃え且つ消ゆる感情の、一定の事物の上に接続して、連鎖の如き現象を呈する者、即ち熱意なり。人間は道義的生命の中心として、愛を有《も》つと共に、感情的生命の中心として熱意を有つなり。熱意は凡ての事業に結局を与ふる者なり。痴情の熱意には、痴情の結局を見るの意味あり。節義の熱意には、節義の結局を見るの意味あり。熱意は常に結局を睨《にら》んで立てり。熱意の終るところは結局にあり。
 人間の五官は、霊魂と自然との中間に立てる交渉器なり。霊魂をして自然を制せしむる是なり、而して人間の霊魂をして全く自然を離れて独立せしめざる者も、亦た是なり。霊魂の一側は常に此の交渉器を通じて、自然と相対峙す、而して霊魂の他の一側は、他の方面より「想像」の眼を仮りて、自然の向うを見るなり、自然を超えて、自然以外の物を視るなり。人に想像あるは、人に思求あるを示めす者なり。人に思求あるは、人に熱意あるを示めす者なり。熱意は冷淡と相反す。冷淡は人を閑殺し、熱意は人を活動的ならしむ。冷淡は思求なき時の心霊の有様にして、人生の意味少なき塲合を指すなり。
 幸福なる生涯には、熱意なる者少なし。熱意は不幸の友なり。熱意は悲哀の隣なり。幽沢《いうたく》邃谷《すゐこく》の中に濃密なる雲霧を屯《たむろ》せしむ。平地には斯《かく》の如き事あらず。国乱れて忠臣興るなり。家破れて英児現はるゝなり。遂げ難き相思益※[#二の字点、1−2−22]恋情を激発し、成し難きの事業愈※[#二の字点、1−2−22]志気を奮励す。不幸の観念は何物をか捉へんとして、捉ふること能はざるより生ずるなり、此の観念の存在する限は、心霊の平衡を失ひたる者にして、熱意なる者は蓋《けだ》し此の平衡を回復せんが為に存するなり。磁石に消極積極の二質あり、この二質が平均せざる限は、引力といふ不可思議の力を此世より絶つこと能はざるなり。斯の如く人間も亦た心霊の平衡を回復せざる限りは、熱意といふ不可思議の力を絶つこと能はざるなり。熱意は力なり。必らず到着せんとするところを指せる、一種の引力なり。この引力は人をして適《たまた》ま偉大なる人物とならしめ、適ま醜悪なる行為をなさしめ、或は善、或は悪、或は聖愛、或は痴情、等の名を衣《き》たる百般の光景を現出して、人生を変幻極まりなきドラマたらしむ。
 人は夢の如き事実を追随する事あり。事実の如き夢を追随する事あり。虚心を以て観る時は、夢にして、而して熱意を以て観る時は、事実の如く視らるゝ者あり、熱意を以て観る時は、夢にして、而して虚心を以て観る時は、事実の如く視らるゝ者あり。虚心は想像を容れず、熱意は想像の好友なればなり。虚心は徹頭徹尾、事実の中に注ぎ、熱意は往々にして、想像の跡を追ふて事実の域を脱す。虚心は意味ある者を意味なくし
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