ヘ慶長の頃かとぞ聞く(慶長見聞記に拠《よ》る)。蓋し乱世の後、人心漸く泰平の娯楽を愬《うつた》へ、彼《か》の芒々たる葦原《よしはら》(今日の吉原)に歌舞妓、見世物|等《など》、各種の遊観の供給起り、これに次いで遊女の歴史に一大進歩を成し、高厦巨屋|甍《いらか》を并べて此の葦原に築かれ、都には月花共に此里にあらねばならぬ様になれり。凡《およ》そ女性の及ぼす勢力はいつの時代にも侮るべからざるものなり、別して所謂|紳士風《ゼントルマンシップ》なる者を形成するには、偉大なる勢力ある事|疑《うたがふ》べからず。故に平民の中にありし紳士の理想は、この遊廓の勢力によりて軽からぬ変化を経たり、読者もし難波及び京都に出でし著作に就きて、彼等の紳士なるものを尋ね見ば、思ひ半ばに過ぐることあらむ。必らずしも巣林子以下の諸輩を引照するに及ばざるべし。遊廓は一個の別天地にして、其特有の粋美をもつて、其|境内《きやうない》に特種の理想を発達し来れり、而して煩悩《ぼんなう》の衆生が帰依するに躊躇《ちうちよ》せざるは、この別天地内の理想にして、一度《ひとたび》脚を此境に投じたるものは、必らずこの特種の忌はしき理想の奴隷となるなり。斯の理想は世上に満布したり、この理想は平民社界に拡がれり、むしろ高等民種の過半をも呑みたり、或時は通と言ひ、或時は粋といふもの、此理想に外《ほか》ならざるなり。而して此理想なるものは即ち平民社界の紳士を作りし潜勢力にして、平民紳士の服装、挙動、会話、趣味この理想に基づかざる事甚だ稀なり。
 眼《まなこ》を転じて巣林子に次ぎて起れる戯曲界の相続者を見れば、題目として取るところ、平民社界の或一種の馳求《ちきう》を充たすものあるを見るべし。之を聞く、河原乞児《かはらこじき》の尤も幼稚なりし時に、其|好趣《かうしゆ》は戦国的の勇壮なるローマンス風のものにて、例せば盗賊を取りて主人公となし、之れに慈憐の志を深うせしめ、彊《きやう》を捍《ひ》しぎ、弱を助くる義気に富ましめ、以て戦国に遠からぬ時代の人心に愬《うつた》へたる如き、概して言へば不自然《アンナチユラリズム》と過激《ヱンサシアズム》とは、この時代の演劇に罅《か》く可からざる要素なりしとぞ。後《のち》に発達したる戯曲(巣林子以後の)に到りても、この不自然と過激とは抜くべからざる特性となりて、「菅原伝授手習鑑」に於て、「蝶花形《てふはながた》」に於て、其他幾多の戯曲に於て、八九歳の少童が割腹したり、孝死するなどの事、戯曲に特有なるヱンサシアズムにてはあるまじき程の過激に流れたり。こゝに一言すべきは、平民に特種の思想生じたりとはいへど、思想は時代の児にてある事勿論なれば、彼等の思想も自《おのづか》ら封建的武勇、別して忠孝の大道を武士の影より鞠養《きくやう》し得たりし事を思はざるべからず。故に彼等の中《うち》に起りし預言者も、一は彼等の趣味に投じ、一は己れの所見に従ひて、自から忠孝即ち武士の理想をもつて平民に及ぼす事なき能はず、これ即ち封建制度に普通なる現象にてあるなり。尚《な》ほ言を換へて曰へば、封建制度は独り武士にのみ其精華なるシバルリーを備へたるにあらず、平民も亦た之を模擬せり、然り、平民の内にもシバルリーは具はりたり、少なくとも侠勇の理想彼等の中に浸潤して、武士の間に降りし雨は平民までをも湿《うる》ほしたること、疑ふべからざるの事実とす。
 かく説き来らば平民社界には「粋」といふものゝ外に、強大なる活気、むしろ理想の侠勇と号するものあることを知らむ。而して我徳川時代に於ける平民の位地を観察すること前陳の如くなりとせば、彼等は其「粋」をも、其「侠」をも偏固なる、矮少《わいせう》なる、むしろ卑下なる理想となしたることも亦、明らかならむ。
 英国のチヨーサーは同国に於て始めてシバルリイの光芒を放ちたる詩人なり、然して其吟詠に上りたるシバルリイは武門の内にあるシバルリイにして、平民の内に其筆鋒を向けざりし、蓋し彼《か》の歴史は我歴史にあらず、彼の貴族は我の貴族の如くに平民と離れたるにあらず、彼の平民は我平民の如くに、貴族に遠き者にあらず、加ふるに彼には平民と貴族とを繋げる宗教の威霊ありて、教堂に集まる時に貴族平民の区劃を無《な》みしたり。而して我にはこの大勢力あらず、宗教にも自《おのづ》からなる階級ありて、印度の古時をうつし出しければ、これも我が平民を貴族より遠ざくるの助けをなせし事明らかなり。彼《かの》シバルリイは朝廷との関係浅からずして、其|華奢《きやしや》麗沢も自からに王気を含みたり、而して我平民社界には之に反して、政権に抗し、威武に敵する気禀《きひん》あるシバルリイを成せり。彼のシバルリイには恋愛の価値高められて、侠は愛と其|轍《わだち》を双《なら》べつゝ、自から優美高讃なる趣致を呈せり、我が平民社界に起りしシバルリイは、其ゼントルマンシップに於て既に女性を遊戯的|玩弄物《ぐわんろうぶつ》になし了りたれば、恋愛なるもの甚だ価直《かち》なく、女性のレデイシップをゼントルマンシップの裡面に涵養するかはりに、却《かへ》つて女性をして男性の為すところを学ばしめて、一種の女侠なるものを重んずるに至れり、この点に於て我がシバルリイは、彼のシバルリイの如く重味あること能はず、我が紳士風は、彼の紳士風の如く優美の気韻を禀《う》くること能はず、女性の天真を殺して、自らの天真をも自損せり。彼のシバルリイは「我《エゴー》」を重んじて、軽々しく死し軽々しく生きず、我がシバルリイは生命を先づ献じて、然る後にシバルリイを成さんとするものゝ如かりし、己れの品性は磨《みが》くこと多からずして、他の儀式礼法多き武門に対敵して、反動的に放縦素朴に走りたり。宗教及び道徳は彼のシバルリイに欠くべからざる要素なりしに、我が平民のシバルリイは寧ろ当時の道徳組織を斥《しり》ぞけ、宗教には縁《ちなみ》薄きものにてありし。要するにチヨーサーのシバルリイ(即ち英国の)は我がシバルリイの如く暗憺たる時代に産《うま》れたるにあらず、我がシバルリイのごとく圧抑の反動として、兇暴に対する非常的手腕として発したるものにはあらで、燦然《さんぜん》たる光輝を放ち、英国今日の気風、英国今日の紳士紳女を彼の如くになしたるも、実にこのシバルリイの余光にてありしことを知るべし。
 侠といふ文字、英語にては甚だ訳し難かるべし、訳し難き程に我が歴史上の侠は、欧洲諸国のシバルリイとは異なれるところあるなり。※[#「にんべん+淌のつくり」、第3水準1−14−30]《も》し強《し》ひてシバルリイを我が平民界の理想に応用せんとせば、侠と粋(侠客の恋愛に限りて)とを合せ含ましめざる可からず、侠客の妻《さい》を取りて研究せば、得るところあらむ。
 我が平民界の侠客をうつして文章に録せしもの、甚だ多し、われは一々之を参照する能はず、こゝに馬琴が其「侠客伝」に序して曰ひし数句を挙げて、其意見を窺《うかゞ》ひ見む。曰く、近世有[#乙]大鳥居逸平、関東小六、幡随長兵、及号[#二]茨城草袴、白柄大小神祇[#一]者[#甲]、皆是閭巷侠、而其所[#レ]為、或未[#三]必合[#二]於義[#一]、啻立[#レ]気斉作[#二]威福[#一]、結[#二]私交[#一]以立[#二]彊於世[#一]者也、較[#乙]諸古者道徳之士、不[#レ]動[#二]声色[#一]、消[#二]宇内之大変[#一]者[#甲]、相去非[#二]唯霄壌而已[#一]、然気豪、以[#レ]此至[#レ]捍[#二]当世之兇暴[#一]、此戦国余習未[#レ]改、其私義廉潔以有[#レ]然也、使[#三]当時無[#二]此人[#一]、則士風自[#レ]是衰、侠客之義、曷可[#レ]少哉、余有[#レ]感焉、而無[#レ]所[#二]激憤[#一]、不[#レ]激不[#レ]憤、猶且伝[#二]侠客[#一]。云々。
 支那の大歴史家同じく「遊侠伝」なる一小篇をのこして曰へることあり。今游侠、其行雖[#レ]不[#レ]軌[#二]於正義[#一]、然其言必信、其行必果、已諾必誠、不[#レ]愛[#二]其躯[#一]、赴[#二]士之阨困[#一]、既已存亡死生矣、而不[#レ]矜[#二]其能[#一]、羞[#レ]伐[#二]其徳[#一]、蓋亦有[#二]足[#レ]多者[#一]。
 韓非子の侠を論ずるの語に曰く、儒以[#レ]文乱[#レ]法、侠以[#レ]武犯[#レ]禁。老子は侠を談じて、大道廃有[#二]仁義[#一]、仁義者道之異称也、而有[#二]似而非者[#一]。と曰ふに対して、馬琴は、夫侠之為[#レ]言、彊也持也、軽[#レ]生高[#レ]気、排[#レ]難解[#レ]紛、孔子所謂、殺[#レ]身成[#レ]仁者是已。と言へり。
 われは侠を上下する論を立つるにあらず、天知子及び愛山生の所論に対して余はむしろ平民界の侠気に同情を投ぐるの念起りたれば、聊《いさゝ》か※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]卒《そうそつ》の説を為し、我が平民界の「侠」及び「粋」の由つて来《きた》るところを穿鑿《せんさく》したるに過ぎず。もし夫れ侠なるものを愛好するやと問はるゝ人あらば、我は是を愛好すなりと答ふるに躊躇せざるべし。然れども我に侠を重んずるやと問ふ者あらば、我は答ふるところを知らず、われは実に徳川時代に平民の理想となりて異色の光彩を放ちしこの「侠」を、其時代の平民の為に憐れむなり。かつて幡随院長兵衛の劇を見たる時に、われは実に長兵衛の衷情《ちゆうじやう》を悲しめり、然れども我は長兵衛の為に悲しむより、寧ろ当時の平民の為に悲しみしなり。彼等平民は自《みづか》ら重んずる故を知らず、自《おのづ》から侠客なるものをして擅横《せんわう》縦暴《しようばう》の徒とならしめたり、侠客の侠客たる所以《ゆゑん》、甚だ重しとせず、平民界に入《いり》て一種の理想となりたる跡、真《まこと》に痛むべし。
[#地から2字上げ](明治二十五年七月)



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三二二號〜三二四號」女學雜誌社
   1892(明治25)年7月2日、16日、30日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2004年10月31日作成
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