ォ質あり、之に臨める至粋の入つて理想となるは、其本然の質を変ふるものにあらず。族制々度の国には族制々度の理想あり、立憲政躰の国には立憲政躰の理想あり、若《も》し支那の如き族制に起りたる国に自由の精気を需《もと》め、英米の如き立憲国に忠孝の精気を求めなば、人は唯だ其愚を笑はんのみ。
シドニイ、スペンサーの輩は好んで其理想する所に従ひてシバルリイ(侠勇)を謳《うた》へり。然れどもウオーヅオルス、バイロン輩の時に至りては是を為さず、時代既に異なれば至粋も亦た異なれり、同じく理想を旨とするものにして其詩眼の及ぶところ、其詩骨の成るところ、各自趣向を異にす。頃者《このごろ》我文学界は侠勇を好愛する戯曲的詩人の起るありて、世は双手を挙げて歓迎すなる趣きあり、侠勇を謳《うた》ふの時代、未だ過ぎ去らざるか、抑《そもそ》も他の理想未だ渾沌《こんとん》たる創造前にありて、未だ何の形をも成さゞるの故か、借問す、没却理想の論陣を布《し》きながら理想詩人、ドラマチストに先《さきだ》ちて出でんと預言し玉ひし逍遙子は、如何なる理想の活如来《いきによらい》をや待つらむ。
徳川氏の時代に平民の上に臨みし至粋は、如何なる理想となりてあらはれしや。我は前に言へりし如く、二個の潮流あるを認むるなり。その源頭に立ちて見る時には一大江なり、其末流の岸に立ちて望めば二流に分れたり。普通の用語に従ひて、我は其一を侠[#「侠」に白丸傍点]と呼び、他を粋[#「粋」に白丸傍点]と呼ばむ。
何《いづ》れの時代にも預言者あり、大預言者あり、小預言者あり、其宗教に、其思想に、彼等は代表者となり、嚮導者《きやうだうしや》となるなり、彼等は己れの「時」を代表すると共に、己れの「時」を継ぐべき他の「時」を嚮導するなり。イザヤは其慷慨|凛凄《りんせい》なる舌を其「時」によりて得たり、而して其義奮猛烈なる精神をもて、次ぎの「時」の民を率ゐたり、カアライルの批評的眼光を以て覗《うかゞ》へば、預言者は其精神を死骨と共に棺中に埋めず、巍然《ぎぜん》として他の「時」に霊活し、無声無言の舌を以て一世を号令するものなり。古昔《いにしへ》の預言者は近世《ちかごろ》に望むべからず、近世《きんせい》の預言者は文字の人なりと言へる、己れ自《みづか》ら一預言者なるカアライルの言を信ずることを得ば、我は徳川氏時代に於ける預言者を其思想界の文士に求めざるを得ず。然り、何れの時代にも或一種の預言者あることを疑はざれば、我は文士を以《もつ》て最も勢力ある預言者と見るの他なきなり。巣林子戯曲ありてより、浮世を難波《なには》の潟に、心中するものゝ数多くなり、西鶴一流の浮世好色小説の流布《るふ》してより、社界の風儀は大《おほい》に紊乱《びんらん》せる事、識者の共に認むる所なり。いざ、是等平民社界の預言者に就きて、その至粋を招きて理想となしたる跡を尋ねて見む。
今代《きんだい》の難波文学は僅《わづ》かに吾妻の花に反応する仇なる面影に過ぎざれども、徳川氏の初代に於て大に気焔を吐きたるものは、彼にてありし。江戸に芭蕉起りて幽玄なる禅道の妙機を闡《ひら》きて、主として平民を済度《さいど》しつゝありし間に、難波には近松巣林子出でゝ艶麗なる情筆を揮《ふる》ひて、一世の趣味を風靡《ふうび》したり、次いで西鶴、其磧《きせき》の一流立ちて、艶道の魔風|隈《くま》なく四方に吹き廻《まは》れり。茲《こゝ》に至りて難波の理想と江戸の理想と、其文学上に現はれたるところを以て断ずれば、各自特種の気禀を備へて、容易に踪跡《そうせき》し得べき痕《あと》を印せり。後《のち》に難波に起れる文士の多数と、後に江戸に起れる文士の多数とを取りて※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]するに、同じく混和すべからざる異色を帯びしこと一点の疑を挿むべからず。不知庵主人が評して不朽の戯曲家と言ひたる巣林子をもて、仮に江戸に生れしめばいかならむ、深く儒家の道徳に観得するところありて、加ふるに己れの自家の理想を以てしたる馬琴をして、難波に生れしめばいかならむ。われは両家其位地を顛動《てんどう》すべしとは信ぜざれども、必らず其産出の上に奇異の現象を生じたりしことを疑はず。難波にては豊公の余威全く民衆の脳漿《なうしやう》を離れずして、徳川氏の武威深く其精神に貫かず。従つて当時の難波の潟に湧きたる潮《うしほ》の迹を問へば、寧ろ武勇の精神を遺却して、他に柔弱なる一種の精気の漸く成熟し来れるを見るべし。ひとり一時の境遇にてしかくなりしにあらで、関西の気質と関東の気質とは自《おのづか》ら異るところなり、宜《むべ》なるかな、侠勇を好みし京伝、馬琴の徒の関西に出でずして関東に起り、門左、西鶴等の関東に生れずして大坂に現れたるや。奇なるかな一は侠勇を尊び、一は艶美を尚《たふと》びて、各自特異の旗幟《きし》を樹《た》てたるや。その始めは、共に至粋の宿れるなり、啻《た》だ一は之を侠勇に形成し、一は之を艶美(所謂粋)に形成したるの別あるのみ。
右は難波と江戸との理想の異色を観察したるのみ、元より侠と言へば江戸に限り、粋と言へば難波に限るにあらず、われは爰《こゝ》に預言者の声を吟味し、その代表する「時」を言ひたるに過ぎず。
(第三)
徳川氏の時代に於て其遊戯、其会話、其趣味を探らんもの、文士の著作に如《し》くはなし。而して文士の著作を翫味《ぐわんみ》するもの、武士と平民との間に凡《すべ》ての現象を通じて顕著なる相違あることを、研究せざるべからず。琴の音《ね》を知り、琵琶の調《てう》を知るものは、之を三絃の調に比較せよ、一方はいかに荘重に、いかに高韻なるに引きかへて、他はいかに軽韻卑調なるに注意するなるべし、斯《かく》の如きは武士と平民との趣味の相違なり。謡曲を聴きたる人は浄瑠璃を聴かん時に、この両者に相容れざる特性ある事に注意するならむ。かくの如く、其能楽に於て、河原演劇に於て、又は其遊芸に於て、もしくは其会話の語調に於て、極めて明晰なる区別あることを知らむ。
蓋《けだ》し我邦《わがくに》は極めて完成せる族制々度を今日まで持ち続けたるものなるからに、吾人の思想も亦た自から単純なりし事は、争ふ可からざる事実なり。而して其単純なる思想は階級に応じて、武士は武士の思想を継ぎ、平民は平民の思想を受けて、甲乙相共に異色をもつて生長し来りぬ。今日の我が語学に志ざすところのものが、我が言語に甚だしき階級語に富めることを言ふも、元より此原因あるによればなり。ヲノリフ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ック(敬礼語)に富めるも亦た、この族制々度の完熟せるに因《よ》れること多し、是れ我国言語の特色にして、この特色は以て我邦に於ける貴族(徳川時代にありては武士をも含む)、平民の区界を判ずるに足るべし。
貴族平民の両階級は、徳川氏の時代に入りし時大に乱れたり、徳川氏は三河武士を以て天下を制したるものなれば、従来の階級は概《おほむ》ね壊裂したり、加《くはふ》るに長年の乱世に人民の位地も大《おほい》に前とは異なりて、従来貴族たりし者の落ちて平民の籍に投ぜし者、従来平民たりし者の登りて貴族の位地を占めし者、少数にてはあらざりしならむ。斯《かく》して徳川氏初代の平民は、従前の平民よりは多少の活気を帯びたりし事疑ひなし。故に彼等の思想も自《おのづ》から一種の特色を具備し得て、隠然武門の思想と対峙せんとするが如き傾きを生じたり。宜《むべ》なるかな。我邦に於て始めて、平民社界の胸奥より自然的育生の声を、この時代に於て聞きたるや。
人は元禄文学を卑下して、日本文学の恥辱是より甚《はなはだ》しきはなしと言ふもの多し。われも亦た元禄文学に対して常に遺憾を抱く者なれど、彼をもつて始めて我邦に挙げられたる平民の声なりと観ずる時に、余は無量の悦喜をもつて、彼等に対するの情あり。然り、俳諧の尤も熟したるもこの時代にて、戯曲の行はれしも、戯作の出でしも、実に此時代にして、而して此等《これら》の物皆な平民社界の心骨より出でたるものなることを知らば、余は寧ろ我邦の如き貴族的制度の国に於て、平民社界の初声《はつごゑ》としては彼等を厚遇するの至当なるを認むるなり。
我国平民の歴史は、始めより終りまで極めて悽惻《せいそく》暗澹《あんたん》たる現象を録せり。而して徳川氏以前にありては、彼等の思想として余に存するもの甚だ微々たり、徳川氏以後世運の漸《やうや》く熟し来りたるを以て、爰《こゝ》に漸く、多数の預言者を得て孚化《ふか》したる彼等の思想は、漸く一種の趣味を発育し来れり。然れども彼等の境遇は、功名心も冒険心も想像も希望も或る線までは許されて、其線を越ゆること叶《かな》はず、何事にも遮断せらるゝ武権の塀墻《へいしやう》ありて、彼等は声こそは挙げたれ、憫《あは》れむべき卑調の趣味に甘んぜざるを得ざりしは、亦た是非もなき事共なり。
幕府は学芸の士を網羅するに油断なかりき。幕府のみ然るにあらず、その高等種族(武士)は、文芸を容れて大《おほい》に品性を発揚したり、当時非凡なる学士の、彼等の社界に厚遇せられたる事実は、少しく徳川時代を知るものゝ共に認むるところなり。然《しかる》に是等学芸の士は、平民に対して些《ちと》の同情ありしにあらず、平民の為に吟哦《ぎんが》せし事あるものにあらず、平民の為に嚮導《きやうだう》せし事あるものにあらず、かるが故に既に初声を挙るの時機に達したる平民の思想は、別に大に俳道に於て其気焔を吐けり。幕府は盛に能楽と謡曲とを奮興して、代々《だい/\》の世主厚く能楽の大夫を遇し、而して諸藩の君主も彼等を養ひて、武門の士の能《よ》く謡曲を謳《うた》ふこと能はざるは恥辱の如き隆運に向へり。学芸に習《な》れず、奥妙なる宗教に養はれざる平民の趣味には、謡曲は到底応ずることを得ざるなり。故に彼等の中に自《おのづ》から新戯曲の発生熟爛するありて、巣林子の時代に於て其盛運を極めたり。物語の類、例《たと》へば太平記、平家物語、等《など》は高等民種の中《うち》に歓迎せられたりと雖《いへども》、平民社界に迎へらるべき様なし、かるが故に彼等の内には自ら、彼等の思想に相応なる物語、小説の類生れ出でたり、加ふるに三絃の発明ありてより、凡《すべ》ての趣味の調ふに於て大に平民社界を翼《たす》け、種々の俗曲なるもの発達し来れり。斯くの如く諸般の差別より観察し来れば、平民は実に徳川氏の時代に於て大に其思想を煥発《くわんぱつ》したるものにして、族制的大隔離の余《よ》を受けて、或意味に於ては高等民種に対して競争の傾きを成し来れるなり。
まことや平民と雖、もとより劣等の種類なるにあらず、社界の大傾向なる共和的思想は斯かる抑圧の間にも自然に発達し来りて、彼等の思想には高等民種に拮抗すべきものはなくとも、自ら不覊磊落《ふきらいらく》なる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なるものとなりて、以て暗《あん》に武門の威権を嘲笑せり。故に彼等は自然に政権を軽視して、幕府の紀律に繋がれざる豪放の素性を養ひ、社界全躰より視る時は一種の破壊的原素を其中に発生せしめて、大に幕府を苦しめたり。制禁に遭ひたる戯作の類、遠島に処せられたる画家の事、是が現象の一として挙ぐるに足るべし。漸く閭巷《りよかう》の侠客なるもの起り来りて、幕政を軽侮し、平民社界の保護者となり、圧抑者に対する破壊的手腕(天知子の語を借用す)となりたるも、是が一現象なりけり。
自然の傾向は人力の争ふこと能はざるものなり、従来文学なるものは独り高等民種の境内に止《とゞ》まりて、平民は一切思想上の自由を持たざりし如くなりしものが、軈《には》かに元禄以降の盛運に際会して、其思想界に多数の預言者を生みて、自から一貫の理想を形《かたちづ》くりたれば、其理想する紳士も、其理想する美人も、其理想する英雄も、有り/\と文学上に映現し出でたり。
こゝに注意を逃《の》がすべからざる一大現象は、遊廓なるものゝ大にこの時代に栄えたることなり、難波或は西京には古くよりこの組織ありしと雖、江戸にてこの現象の大にあらはれたる
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング