徳川氏時代の平民的理想
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彼らの中《うち》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)禅味|飄逸《へういつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]
[#…]:返り点
(例)或未[#三]必合[#二]於義[#一]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)偶《たま/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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(第一)
焉馬、三馬、源内、一九等の著書を読む時に、われは必らず彼等の中《うち》に潜める一種の平民的虚無思想の絃《いと》に触るゝ思あり。就中《なかんづく》一九の著書「膝栗毛《ひざくりげ》」に対してしかく感ずるなり。戯文戯墨の毒弊は世俗の衆盲を顛堕せしのみかは、作者自身等をも顛堕し去んぬ。然《しか》れども其罪は之を独り作者に帰すべきにあらず。当時の時代、豈《あに》作者の筆頭を借りて、其|陋醜《ろうしう》を遺存せしものにあらずとせんや。
徳川氏の封建制度は世界に於て完全なるものゝ一と称せらる、然れども武門の栄華は平民に取りて幸福を剥脱《はくだつ》する秋霜なり、盆水一方に高ければ、他方に低からざるを得ず、権力の積畳《せきでふ》せし武門に自《おのづ》からなる腐爛生じ、而《しか》して平民社界も亦《ま》た敗壊し終れり、一方は盛栄の余に廃《すた》れ、他方は失望の極に陥落せしなり、自然の結果ほど恐るべきものはあらじ。
道徳の府なる儒学も、平民の門を叩《たゝ》くことは稀なりし、高等民種の中《うち》にすら局促たる繩墨《じようぼく》の覊絆《きはん》を脱するに足るべき活気ある儒学に入ることを許さゞりしなり。精神的修養の道、一として平民を崇《あが》むるに適するものあらず、偶《たま/\》、俳道の普及は以て彼等を死地に救済せんとしけるも、彼等は自ら其粋美を蹴棄したり。
禅味|飄逸《へういつ》なる仏教は屈曲して彼等の内に入れり。彼等は神道家の如くに皇室を敬崇することを得ず、孔教を奉じて徳性を育助することも能《あた》はず、左《さ》ればとて幽玄なる仏界の菩薩に近づく事も、彼等の為し得るところにあらず、悲しいかな仏教の中《うち》にも卑近なる教派のみ彼等の友となり、迷信は彼等を禁籠する囚宰《しうさい》となり、弱志弱意は彼等を枯死せしむる荒野《あれの》となり、彼等をして人間の霊性を放擲《はうてき》して、自《みづか》ら甘んじて眼前の権勢に屈従せしむるに至りぬ。
自由は人間天賦の霊性の一なり。極めて自然なる願欲の一なり。然るに彼等は呱々《こゝ》の声の中《うち》より既にこの霊性を喪《うしな》へるを自識せざる可らざる運命に抱かれてありたり、自然なる願欲は抑へて、不自然なる屈従を学ばざる可らざるタイムの籠に投げられてありたり。人誰れか全くタイムの籠に控縛《こうばく》せらるゝを心地よしとするものあらむ、人誰れか天賦の霊性を自殺せしむべき運命を幸福なりとするものあらん。沙翁、人間に斯般《しはん》の一種の煩悶《はんもん》の抜く可からざるものあるを見て、通解して謂《い》へらく、
[#ここから2字下げ]
For who would bear the whips and scorns of time,
The oppressor's wrong, the proud man's contumely, etc.
[#ここで字下げ終わり]
まことに人間は自由を享有すべき者なるよ。今日までの歴史を細閲すれば、自由を買はんとて流せし血の価《あたひ》と煩悶せし苦痛の量とはいかばかりぞや。
[#ここから2字下げ]
And thus the native hue of resolution
Is sicklied o'er with the pale cast of thought ; etc.
[#ここで字下げ終わり]
徳川氏末世の平民、実にこの煩悶を有《たも》つこと少なからざりしなり、この煩悶の苦痛に堪《た》へがたかりしなり、こゝに於てか権勢家の剛愎《がうふく》にして暴慢なる制抑を離れて、別に一種の思想境を造り、以て自ら縦《ほしいまゝ》にするところなきを得ず。この思想境は余が所謂《いはゆる》一種の平民的虚無思想の聚成《しゆうせい》したるところなり。而して十返舎一流の戯墨は実に、この種の思想境より外に鳴り出でたる平民者流の自然の声にあらずして何ぞや。
民友子|先《さき》つ頃「俗間の歌謡」と題する一文を作りて、平民社界に行はるゝ音楽の調子の低くして険《けん》なるを説きぬ。民友子は時勢を洞察して、歎慨の余
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