閧ノ此語を吐けり、われは日本の文学史に対してこの一種の虚無思想の領地の広きを見て、痛惻に勝《た》へざるなり、彼等は高妙なる趣致ある道徳を其門に辞《こば》み、韻調の整厳なる管絃を謝して容れず、卑野なる楽詞を以《も》て飲宴の興を補ひ、放縦なる諧謔《かいぎやく》を以て人生を醜殺す。三絃の流行は彼等の中《うち》に証《あかし》をなせり、義太夫|常磐津《ときはづ》より以下|短歌《はうた》長歌《ながうた》こと/″\く立ちて之れが見証者たるなるべし。われは彼等の無政府主義なりしや極端なる共和主義なりしや否やを知らず、然れども政治上に於て無政府主義ならずとも、共和主義ならずとも、思想上に於ては彼等は純然たる虚無思想を胎生したりしことを疑はず、あはれむべし人生の霊存《スピリチユアル・エキジスタンス》を頭より尾まで茶にしてかゝりたる十返舎も、一個の傲骨《がうこつ》男児なりしにあらずや、青山を抱《いだ》いて自由の気を賦せしシルレルと、我《わが》好傲骨《かうがうこつ》男子と、其揺籠の中にありし時の距離|何《いくばく》ぞや。
 女学子は時勢に激するところありて「膝栗毛」の版を火《や》かんと言《いへ》り。われは女学子の社界改良の熱情に一方ならぬ同情を有《たも》つものなり。然れどもわれは寧《むし》ろ十返舎の為に泣《なか》ざるを得ざる悲痛あり、彼の如き豪逸なる資性を以て、彼の如きゼヌインのウイットを以て、而して彼の如くに無無無[#「無無無」に白丸傍点]の陋巷《ろうかう》に迷ひ、無無無[#「無無無」に白丸傍点]の奇語を吐き、無無無[#「無無無」に白丸傍点]の文字を弄《ろう》して、遂に無無無[#「無無無」に白丸傍点]の代表者となつて終らしめたるもの、抑《そもそ》も時代の罪にあらずして何ぞや。
[#ここから2字下げ]
(本論は次号にうつりて、我が畏敬する天知子と愛山生の両兄によりて評論界を騒がしたる「遊侠」の問題に入り、更に「粋」といふ題目に進みて卑見を吐露すべし。)
[#ここで字下げ終わり]

     (第二)

 老人は古《いにし》へを恋ひ、壮年は己れの時に傲《おご》る、恋ふるものは恋ふべきの迹《あと》透明にして而して後に恋ふるにあらず、傲る者は傲るべき理の照々たるが故に傲るにあらず。彼は「時」に欺《あざむ》かれ尽くして古時《いにしへ》を思ひ、これは「時」に弄せらるゝを知らずして空望を懸く。気|盈《み》ち骨|剛《かた》きものすら多くは「時」の潮流に巻かれて、五十年の星霜|急箭《きふせん》の飛ぶが如くに過ぐ。
 然れども社界の裡面には常に愀々《しう/\》の声あり、不遇の不平となり、薄命の歎声となり、憤懣心の慨辞となりて、噴火口端の地底より異様の響の聞ゆる如くに、吾人の耳朶《じだ》を襲ふを聴く。まことや人間社界ありてより以来、ヂスコンテンションと呼べる黒雲の天の一方にかゝらぬ時はあらざるなり。
 凡《およ》そ社界の組織、封建制度ほど不権衡なるものはあらず、而して徳川氏の封建制度極めて完成したるものなりし事を知らば、社界の一方にヂスコンテンションの黒雲も亦た彼の如くに広大なりしものあらざりしを見るべし。その不平の黒雲の尤も多く宿るところは、尤も深く人間の霊性を備へたる高尚なる平民の上にあり。阿諛佞弁《あゆねいべん》をもて長上に拝服するは小人の極めて為し易きところにして、高潔なる性格ある者に取りて極めて難しとするところなり。もし今よりして当時の平民の心裡の実情を描けば、あはれ彼等は蠖蟄《くわくちつ》の苦を甘んずるにあらざれば、放縦豪蕩にして以て一生を韜晦《たうくわい》し去るより外《ほか》はなかりしなり。一種の虚無思想、彼等の心性上に広大なる城郭を造りて、彼等をして己れの霊活なる高尚の趣味を自殺せしめ、希望なく生命なき理想境に陥歿し入らしめたり。
 天知子、其の平生深く自信する精神的義侠の霊骨を其鋭利なる筆尖《ひつせん》に迸《ほとば》しらしめて曰く、社界の不平均を整ふる非常手腕として侠客なるものは自然に世に出でたるなりと、又《ま》た曰く、反動激発せる火花の如きものは侠客の性なりと。天知君の侠客論精緻を極めたれば、我が為めに其の性質を論評すべき余地を余さず、我は唯だ我が分に甘んじて、文学的に、徳川氏時代に平民者流の理想となりし侠と粋とが如何《いか》なる者なるべきやを、観察するの栄を得む。
 わが徳川時代平民の理想を査察せんとするは、我邦《わがくに》の生命を知らんとの切望あればなり。山沢を漫渉《まんせふ》して、渓澗《けいかん》の炎暑の候にも涸《か》れざるを見る時に、我は地底の水脈の苟且《ゆるかせ》にすべからざるを思ふ、社界の外面に顕はれたる思想上の現象に注ぐ眼光は、須《すべか》らく地下に鑿下《さくか》して幾多の土層以下に流るゝ大江を徹視せん事を要す、徳川氏の興亡は甚《はなは
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング