セ》しく留意すべきにあらず、然も徳川氏三百年を流るゝ地底の大江我が眼前に横たはる時、我は是を観察するを楽しむ、誰れか知らむ、徳川氏時代に流れたる地下の大江は、明治の政治的革新にてしがらみ留《と》むべきものにあらざるを。
我が観察せんと欲する大江は、其上流に於ては一線なりしかども、末に至りて二派を為せり。而して其湿ほすところはナイル河の埃及《エヂプト》に於けるが如くに、我邦の平民社界を覆へり。
われ常に惟《おも》へらく、至粋《しすゐ》は極致の翼にして、天地に充満する一種の精気なり。唯だ至粋を嚮《むか》へて之を或境地に箝《は》むるは人間の業にして、時代なる者は常に其の択取《たくしゆ》したる至粋を歴史の明鏡に写し出すなり。至粋は自《おのづか》ら落つるところを撰まず、三保の松原に羽衣を脱ぎたる天人は漁郎の為に天衣を惜みたりしも、なほ駿河遊びの舞の曲を世に伝へけり。彼は撰まず、然れども彼の降《くだ》りて世に入るや、塵芥《ぢんかい》の委積《ゐせき》するところを好まざるなり。否、塵芥は至粋を駐《とゞ》むるの権《ちから》なきなり、漁郎天人の至美を悟らずして、徒《いたづ》らに天衣の燦爛《さんらん》たるを吝《をし》む、こゝに於てか天人に五衰の悲痛あり。至粋の降るところ、臨むところ、時代之を受けて其時代の理想を造り、その時代を代表するもの之を己が理想の中心となす。自由を熱望する時代には至粋は自由の気となりて、ウィリヤム・テルの如き代表者の上に不朽なる気禀《きひん》をあらはし、忠節に凝《こ》れる時代には楠公《なんこう》の如き、はた岳飛、張巡の徒の如き、忠義の精気に盈《み》ちたる歴史的の人物を生ずるに至るなり。ピユリタンの興らんとする時に、至粋は彼等朴直なる田舎漢の上に望みて、千載歴史上の奇観をなし、独逸《ドイツ》に起りたる宗教改革の気運の漸くルーテルが硬直誠実なる大思想に熟せんとするや、至粋は直《たゞ》ちに入つてルーテルの声に一種の霊妙なる威力を備へたり。
至粋は時代を作る者にあらず、時代こそ至粋を招きて自《みづか》ら助くるものなれ。豪傑英雄は特《こと》に至粋のインスピレイションを享《うく》る者にてあれど、シイザルはシイザルにて、拿翁《ナポレオン》は拿翁たるが如く、至粋を享くる量は同じくとも、其英雄たるの質は本然に一任するのみ。
時代も亦た斯《かく》の如し、時代には継承したる本然の性質あり、之に臨める至粋の入つて理想となるは、其本然の質を変ふるものにあらず。族制々度の国には族制々度の理想あり、立憲政躰の国には立憲政躰の理想あり、若《も》し支那の如き族制に起りたる国に自由の精気を需《もと》め、英米の如き立憲国に忠孝の精気を求めなば、人は唯だ其愚を笑はんのみ。
シドニイ、スペンサーの輩は好んで其理想する所に従ひてシバルリイ(侠勇)を謳《うた》へり。然れどもウオーヅオルス、バイロン輩の時に至りては是を為さず、時代既に異なれば至粋も亦た異なれり、同じく理想を旨とするものにして其詩眼の及ぶところ、其詩骨の成るところ、各自趣向を異にす。頃者《このごろ》我文学界は侠勇を好愛する戯曲的詩人の起るありて、世は双手を挙げて歓迎すなる趣きあり、侠勇を謳《うた》ふの時代、未だ過ぎ去らざるか、抑《そもそ》も他の理想未だ渾沌《こんとん》たる創造前にありて、未だ何の形をも成さゞるの故か、借問す、没却理想の論陣を布《し》きながら理想詩人、ドラマチストに先《さきだ》ちて出でんと預言し玉ひし逍遙子は、如何なる理想の活如来《いきによらい》をや待つらむ。
徳川氏の時代に平民の上に臨みし至粋は、如何なる理想となりてあらはれしや。我は前に言へりし如く、二個の潮流あるを認むるなり。その源頭に立ちて見る時には一大江なり、其末流の岸に立ちて望めば二流に分れたり。普通の用語に従ひて、我は其一を侠[#「侠」に白丸傍点]と呼び、他を粋[#「粋」に白丸傍点]と呼ばむ。
何《いづ》れの時代にも預言者あり、大預言者あり、小預言者あり、其宗教に、其思想に、彼等は代表者となり、嚮導者《きやうだうしや》となるなり、彼等は己れの「時」を代表すると共に、己れの「時」を継ぐべき他の「時」を嚮導するなり。イザヤは其慷慨|凛凄《りんせい》なる舌を其「時」によりて得たり、而して其義奮猛烈なる精神をもて、次ぎの「時」の民を率ゐたり、カアライルの批評的眼光を以て覗《うかゞ》へば、預言者は其精神を死骨と共に棺中に埋めず、巍然《ぎぜん》として他の「時」に霊活し、無声無言の舌を以て一世を号令するものなり。古昔《いにしへ》の預言者は近世《ちかごろ》に望むべからず、近世《きんせい》の預言者は文字の人なりと言へる、己れ自《みづか》ら一預言者なるカアライルの言を信ずることを得ば、我は徳川氏時代に於ける預言者を其思想界の文士に求めざる
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