宮を美妙の観念の中心としたる我文学は(前述二篇に就きて曰ふ)、一神教国に於ける宇宙万有の上に臨める聖善なるものを中心として、万有趣味の観念を加へしめたるものに、及ぶ能はず。竹、羽、二篇は実に固有の古神思想と仏教思想とを併せ備へたるものなるに、その結果斯の如くなりとせば、我邦理想詩人の前途、豈《あに》※[#「りっしんべん+音」、112−上−23]然《あんぜん》ならざらんや。(嵯峨のやの「夢現境」をも参考あらん事を請ふ。)
我風流吟客を迷はせたるもの、雪月花の外はあらず、此一事も亦た以て我文学の他界に対する美妙の観念に乏しきを証するに足るべし。我文学を繊細巧妙にならしめて、崇高壮偉にならしむる能はざりしもの、畢竟《ひつきやう》するに他界の観念なくして、接近せる物にのみ寄想したればなり。
我文学に恋愛なるものゝ甚だ野鄙《やひ》にして熱着ならざりしも、亦《ま》た他界に対する観念の欠乏せるに因するところ多し、「もろ/\の星くづを君の姿にして」などやうなる詞《ことば》は、到底我詩界に求むること能はじ。実界にのみ馳求する思想は、高遠なる思慕を産《う》まず、我恋愛道の、肉情を先にして真正の愛情を後
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