にする所以、茲《こゝ》に起因するところ少しとせず。
少時、劇に誘はれて大江山の鬼を観たりし事あり、三尺の童子たりし時にすら畏怖の念よりも寧ろ嘲笑の念を抱きたりしを記憶す、而して大江山の鬼は土蜘蛛《つちぐも》等と共に中古の鬼物なり、是を彼のバツグビーア、ウイツチなどに比較せばいかに、その妖魅力《えうみりよく》の差違いかに遠きかは一見して知るべし。妖魅力を鬼物自らに属するものとするは我鬼神の思想なり、妖魅力をセタンより授けられたるものとするは一魔教の思想なり、一魔教(仮に此語を作りて)の魔業は天地を包める事、前にも言ひたり、我国の妖魅力は一勇者渡辺綱にも、頼光にも制伏せらるゝ程の微力なり、九尾狐《きうびのきつね》の妖力を以ても那須与一の一箭に斃れたり、要するに我国文学上の妖魅力は人威に勝つこと能はざるものなり、是れも亦た我邦に他界に対する観念の乏しきを証するに足れり。
「死てふ眠の中にいかなる夢をや見るらむ。」と歌ひたる詩家は泰西にあれども、「死んで仕舞へば真くらやみ。」と説いたる小説家は日本にあり。死は眠なり、と言ふと、死は終なりと言ふと、思想の上に莫大の差違あり、一はエターニチイの基
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