リー・パワー》に対する観念も、邪悪なる魔力《サタニツク・パワー》も共に人間の観念の区域を拡開したるものにして、一あつて他なかるべからず、基督の神性は東洋の唯心的思想が達せしむる能はざるところに観念を及さしむると共に、サタンの魔性は東洋の悪鬼思想の到らざるところまで観念を達せしむ。一神教の裡面《りめん》は一魔教なり、多神教の裡面は即ち多鬼教なり、一神教には中心の権あるが故に中心の善美あり、是と同時に一魔教にも中心の統御あるが故に中心の毒悪あり、一のポジチーブに対して一のネガチーブあり、多のポジチーブに対して多のネガチーブあるは当然の理なり。斯《かく》の如くなるが故に、欧洲諸国に行はるゝ詩想は日本に求むべからず、善美なるものに対する観念も醜悪なるものに対する観念も、中心を有せず焦点を有せざるが故に、遠大高深なる鬼神を詩想中に産み出す事を得ざるなり。
漫然語を為《な》すものあり、曰く、我国にも幽玄高妙なる想詩を構ふるに足るべき古神学あるにあらずやと。余を以て是を見れば、我国の古神学は或は俗を喜ばすべき奇異譚を編むには好材料たるべきも、到底|所謂《いはゆる》幽玄《ミステリー》を本とする想詩を
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