も亦た詩人哲学者小説家等が妄《みだり》に真理を貪るを悪《にく》む者なり。然れども蘇峰先生は、悉皆《しつかい》の詩人哲学者小説家を以て、ベベルの高塔を築くものなりとは言はれざりし、神知霊覚といふ事は先生も亦た之を認められたり、赤心[#「赤心」に傍点]を以て観るといふ事も大に吾人の心を得たるものなり。人間は霊質二界に棲む者なり、と「現金世界」に於て言はれたる民友子の金言、吾人之を記憶す、民友子は霊界を非認する人にあらざる事知れてあり、その質界を非認する人にあらざる事も知れてあり。然るに世間には、この論文を以て、理想的文学を排撃する目的より出たる者の様に誤解して、幸ひ「人生問題」のある時なれば、彼等理想を重んずる人々は、全く人性を顧みざる者なり、足の無き仙人の様な者なりなど、兎角|京童《きやうわらべ》の口善悪《くちさが》なき、飛んだ迷惑をするものも出来《いできた》れる次第なるが、これも一つは「人生」といふ字の意義の誤解され易きに因せし者なれば、無暗に敵になり味方になる事なく、心を静めて「人生」の一字を玩味するこそ願はしけれ。
「高蹈派」といふ名称は、何人に加へられたる者なるか、吾人之を知る能はず、然るに例の口善悪なき京童等は、高蹈派とは足の無き仙人の事なり、足の無き仙人とは「文学界」の連中であらうなど言散らして、矢鱈《やたら》に仙人よばりせられんは余り嬉しき事にあらず。尤も「高蹈派」一条は、「人生問題」とは全く離れたる者なり。人性といふ字も人情といふ字も余り見受けざれば、京童が誤解の種も自然少なき筈なり。
右の如く、「人生」といふ字の意義によりては、議論も種々になるべければ、傍より口を出す人々は能々《よく/\》御熟考の上にて御名論を出され可くと存ず。更に之を言へば、余(「文学界」といふ団躰を離れて)と愛山君との議論の焼点は、文学は必らずしも写実的の意義を以て人生に相渉らざる可からざるか、或は又た理想といふものを人生に適用することを許すものなりやの如何《いかん》にあり。余は理想家でも何でも無し、唯だ余り酷《きび》しく文学を事実《ファクト》に推しつけたがるが愛山君の癖なれば、一時の出来心にて一撃を試みたるのみ、考へて見ればつまらぬ喧嘩にあらずや。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
愛山君も人が悪るい御方ならずや。僕が「人生相渉論」を難じて君を苦しめたる返報には、唯心的とか凡
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング