《あは》れむべき自足なり。この憫れむべき自足[#「自足」に白丸傍点]を以て現象世界に処して、快楽と幸福とに欠然たるところなしと自信するものは、浅薄なる楽天家なり。彼は狭少なる家屋の中に物質的論客と共に坐を同くして、泰平を歌はんとす。歌へ、汝が泰平の歌を。
 然れども斯の如き狭屋の中には、味もなき「義務」双翼を張りて、極めて得意になるなり。剛健なる「意志」其の脚を失ひて、幽霊に化するなり。訳もなき「利他主義」は荘厳なる黄金仏となりて、礼拝せらるゝなり。「事業」といふ匠工《たくみ》は唯一の甚五郎になるなり、「快楽」といふ食卓は最良の哲学者になるなり。ペダントリーといふ巨人は、屋根裡《やねうら》に突き上るほどの英雄になるなり。凡《すべ》ての霊性的生命は此処を辞して去るべし。人間を悉く木石の偶像とならしむるに屈竟《くつきやう》の社殿は、この狭屋なるべし。この狭屋の内には、菅公は失敗せる経世家、桃青は意気地なき遁世家、馬琴は些々《さゝ》たる非写実文人、西行は無慾の閑人となりて、白石の如き、山陽の如き、足利尊氏の如き、仰向すべきは是等の事業家の外なきに至らんこと必せり。
 頭をもたげよ、而して視よ、而して求めよ、高遠なる虚想を以て、真に広濶なる家屋、真に快美なる境地、真に雄大なる事業を視よ、而して求めよ、爾《なんぢ》の Longing を空際に投げよ、空際より、爾が人間に為すべきの天職を捉《と》り来れ、嗚呼《あゝ》文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之れ求めむ。
[#地から2字上げ](明治二十六年二月)



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 二號」女學雜誌社
   1893(明治26)年2月28日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2005年1月27日作成
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