ざりしなり。爰に於て彼は実[#「実」に白丸傍点]を撃つの手を息《やす》めて、空[#「空」に白丸傍点]を撃たんと悶《もが》きはじめたるなり。彼は池の一側に立ちて、池の一小部分を睨《にら》むに甘んぜず、徐々として歩みはじめたり。池の周辺を一めぐりせり。一めぐりにては池の全面を睨むに足らざるを知りて、再回せり。再回は池の全面を睨むに足りしかど、池の底までを睨らむことを得ざりしが故に、更に三回めぐりたり、四回めぐりたり、而して終《つひ》によもすがらめぐりたり。池は即ち実[#「実」に白丸傍点]なり。而して彼が池を睨みたるは、暗中に水を打つ小児の業に同じからずして、何物をか池に写して睨みたるなり。何物をか池に打ち入れて睨みたるなり。何物にか池を照さしめて睨みたるなり。睨みたりとは、視《み》る仕方の当初[#「当初」に白丸傍点]を指して言ひ得る言葉なり。視る仕方の後を言ふ言葉は Annihilation の外なかるべし。彼は実を忘れたるなり、彼は人間を離れたるなり、彼は肉を脱したるなり。実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて、何処にか去れる。杜鵑《とけん》の行衛《ゆくゑ》は、問ふことを止めよ、天涯高く飛び去りて、絶対的の物[#「絶対的の物」に傍点]、即ち Idea にまで達したるなり。
彼は事実の世界を忘れたるにあらず、池をめぐりて両三回するは実[#「実」に白丸傍点]を見貫く心ありてなり、実[#「実」に白丸傍点]は自然の一側なり、而して実[#「実」に白丸傍点]を照らすものも亦た自然の他の一側なり、実[#「実」に白丸傍点]は吾人の敵となりて、吾人に迫ることを為せども、他の一側なる虚[#「虚」に白丸傍点]は、吾人の好友となりて、吾人を導きて天涯にまで上らしむるなり、池面にうつり出たる団々たる明月は、彼をして力としての自然を後《しり》へに見て、一躍して美妙なる自然に進み入らしめたり。
サブライムとは形[#「形」に白丸傍点]の判断にあらずして、想[#「想」に白丸傍点]の領分なり、即ち前に云ひたる池をめぐりてよもすがらせる如き人の、一躍して自然の懐裡に入りたる後に、彼処《かしこ》にて見出すべき朋友を言ふなり。この至真至誠なる朋友を得て、而して後、夜を徹するまで池をめぐるの味あるなり。池をめぐるは Nothingness をめぐるにあらず、この世ならぬ朋友と共に、逍遙遊するを楽しむ為にするなり。
造化主は吾人に許すに意志の自由を以てす。現象世界に於て煩悶苦戦する間に、吾人は造化主の吾人に与へたる大活機を利用して、猛虎の牙を弱め、倒崖《たうがい》の根を堅うすることを得るなり。現象以外に超立して、最後の理想に到着するの道、吾人の前に開けてあり。大自在の風雅を伝道するは、此の大活機を伝道するなり、何ぞ英雄剣を揮ふと言はむ。何ぞ為すところあるが為と言はむ。何ぞ人世に相渉らざる可からずと言はむ。空《くう》の空の空を撃つて、星にまで達することを期すべし、俗世をして俗世の笑ふまゝに笑はしむべし、俗世を済度するは俗世に喜ばるゝが為ならず、肉の剣はいかほどに鋭くもあれ、肉を以て肉を撃たんは文士が最後の戦塲にあらず、眼を挙げて大、大、大の虚界を視よ、彼処に登攀して清涼宮を捕握せよ、清涼宮を捕握したらば携へ帰りて、俗界の衆生に其一滴の水を飲ましめよ、彼等は活《い》きむ、嗚呼《あゝ》、彼等|庶幾《こひねがは》くは活きんか。
自然の力をして縦《ほしいまゝ》に吾人の脛脚《けいきやく》を控縛せしめよ、然れども吾人の頭部は大勇猛の権《ちから》を以て、現象以外の別《べつ》乾坤《けんこん》にまで挺立《ていりふ》せしめて、其処に大自在の風雅と逍遙せしむべし。彼の物質的論家の如きは、世界を狭少なる家屋となして、其家屋の内部を整頓するの外には一世の能事なしとし、甘《あまん》じて爰に起臥せんとす、而して風雨の外より犯す時、雷電の上より襲ふ時、慄然として恐怖するを以て自らの運命とあきらめんとす。霊性的の道念に逍遙するものは、世界を世界大の物と認むることを知る、而して世界大の世界を以て、甘心自足すべき住宅とは認めざるなり、世界大の世界を離れて、大大大の実在《リアリチイ》を現象世界以外に求むるにあらずんば、止まざるなり。物質的英雄が明|晃々《くわう/\》たる利剣を揮つて、狭少なる家屋の中に仇敵と接戦する間に、彼は大自在の妙機を懐にして無言坐するなり。
悲しき Limit は人間の四面に鉄壁を設けて、人間をして、或る卑野なる生涯を脱すること能はざらしむ。鵬《おほとり》の大を以てしても蜩《せみ》の小を以てしても、同じくこの限[#「限」に傍点]を破ること能はざるなり。而して蜩の小を以て自らその小を知らず、鵬の大を以て自ら其の大を知らず、同じく限[#「限」に傍点]に縛せらるゝを知らず欣然として自足するは、憫
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