真理を認むるの確なるを謝するに吝《やぶさか》ならざらんと欲す、然れども吉野山を以て活用論者の手に委ぬるは、福沢先生を同志社の総理に推すことを好まざると同じく好まざるなり。
 肉の力は肉の力を撃つに足るべし、死したるものゝ死したるものを葬むるを得るといふ真理は、ナザレの人の子も之れを説けり。然れども死したるものゝ葬むることを得ざるものあるは、肉の力の撃砕することを得ざるものあると共に、他の一側に横はれる真理なり。一人の敵を学ぶの非なるは、万人の敵を学びても猶《な》ほ失敗したる項羽すら、之を発見せり。万人の敵を学ぶは百万人の敵を学ぶに如かざればならむ。百万人の敵を学びたる(仮定して)漢王も、亦た「死朽」といふ不可算の敵の前には、無言にして仆《たふ》れたり。「死朽」といふ敵に対して、吾人は吾人の刀剣を揮《ふる》ふこと、愛山生の所謂英雄剣を揮ふ如くするも、成敗の数は始めより定まりてある如く、吾人は自然(力としての)の前に立ちて脆弱《ぜいじやく》なる勇士にてあるなり。
「力《フオース》」としての自然は、眼に見えざる、他の言葉にて言へば空の空なる銃鎗を以て、時々刻々「肉」としての人間に迫り来るなり。草薙《くさなぎ》の剣《つるぎ》は能く見ゆる野火を薙ぎ尽したりと雖《いへども》、見えざる銃鎗は、よもや薙ぎ尽せまじ。英雄をして剣を揮はしむるは、見る可き敵に当ればなり、文章をして京山もしくは山陽の如く世を益するが為めと、人世に相渉らしむるが為に戦はしむるは、見るべき実(即ち敵)に当らしむるが為なり。然れども空の空なる銃鎗を迎へて戦ふには、空の空なる銃鎗を以てせざるべからず、茲《こゝ》に於て霊の剣を鋳るの必要あるなり。
 自然は吾人に服従を命ずるものなり、「力」としての自然は、吾人を暴圧することを憚《はゞか》らざるものなり、「誘惑」を向け、「慾情」を向け、「空想」を向け、吾人をして殆ど孤城落日の地位に立たしむるを好むものなり、而して吾人は或る度までは必らず服従せざるべからざる「運命」、然り、悲しき「運命」に包まれてあるなり。項羽は能く虞美人《ぐびじん》に別るゝことを得たれども、吾人は此の悲しき「運命」と一刻も相別るゝを得ざるものなり。然れども自然は吾人をして「失望落魄」の極、遂に甘んじて自然の力に服従し了するまでに、吾人を困窘《こんきん》せしめざるなり。爰《こゝ》に活路あり、活路は必らず
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