しも活用と趣を一にせず、吾人をして空虚なる英雄を気取りて、力としての自然の前に、大言壮語せしむるものは我が言ふ活路にあらず、吾人は吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひたる自由を、他の大自在の霊世界に向つて縦《ほしいまゝ》に握らしむる事を得るなり。自然は暴虐を専一とする兵馬の英雄の如きにあらず、一方に於て風雨雷電を駆つて吾人を困《くる》しましむると同時に、他方に於ては、美妙なる絶対的のものをあらはして吾人を楽しましむるなり。風に対しては戸を造り、雨に対しては屋根を葺《ふ》き、雷に対しては避雷柱を造る、斯《か》くして人間は出来得る丈は物質的の権《ちから》を以て自然の力に当るべしと雖、かくするは限ある権をもて限なき力を撃つの業にして、到底限ある権を投げやりて、自然といふものゝ懐裡に躍り入るの妙なるには如かざるなり。爰に於て吉野山は、活用論者の睹易《みやす》からざる活機を吾人に教ふるなり。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と歌ひたる詩人が、活用論者の知ること能はざる大活機を看破したるは、即ち爰にあるなり。
宗教なし、サブライムなしと嘲けられたる芭蕉は、振り向きて嘲りたる者を見もせまじ、然れども斯く嘲りたる平民的短歌の史論家(同じく愛山生)と時を同《おなじ》うして立つの悲しさは、無言|勤行《ごんぎやう》の芭蕉より其詞句の一を仮り来つて、わが論陣を固むるの非礼を行はざるを得ず。古池の句は世に定説ありと聞けば之を引かず、一層簡明なる一句、余が浅学に該当するものあれば、暫らく之を論ぜんと欲す。其は、
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明月や池をめぐりてよもすがら
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の一句なり。
池の岸に立ちたる一個人は肉[#「肉」に白丸傍点]をもて成りたる人間なることを記憶せよ。彼はすべての愛縛、すべての執着、すべての官能的感覚に囲まれてあることを記憶せよ。彼は限ある物質的の権《ちから》をもて争ひ得る丈は、是等無形の仇敵と搏闘《はくとう》したりといふことを記憶せよ。彼は功名と利達と事業とに手を出すべき多くの機会ありたることを記憶せよ。彼は人世に相渉るの事業に何事をも難しとするところなかりしことを記憶せよ。然るに彼は自ら満足することを得ざりしなり、自ら勝利を占めたりと信ずることを得ざりしなり、浅薄なる眼光を以てすれば勝利なりと見るべきものをも、彼は勝利と見る能は
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