、而して「伽羅枕《きやらまくら》」に対して初めて其説を堅うするを得たり。粋と侠とは従来の諸文士の理想なりしに、今日の紅葉にして鞭を挙げて此問題に進まんとは余の期せざりしところなり。さはれ紅葉は徳川時代の所謂好色文士とは品|異《かは》れり、一篇の想膸、好色を画くよりも寧《むし》ろ粋と侠とを狭き意味の理想に凝《こ》らし出でたりと見るは非か。既に紅葉は廓内の理想家にあらず、而して粋と侠とを写す、必らずしも之を崇拝しての著述にあらずとするも、正《まさ》しく粋と侠とを以て主眼となしたるは疑ふ可からざるが如し。余は此書の価直《かち》を論ずるよりも寧ろ此著の精神を覗《うかゞ》ふを主とするなり。即ち紅葉が粋と侠とを集めて一美人を作り、其一代記を書《もの》したる中に、如何なる美[#「美」に白丸傍点]があるを探らんとするなり。
 われ曾《かつ》て粋と恋愛との関係を想ひて惑ひし事あり。そは旧作家の画き出せる粋なる者、真の恋愛とは異なる節多ければなり。粋と恋愛とは何処《どこ》かの点に於て相|撞着《どうちやく》するかに思はるゝは非か。試に少しく之を言はむ。
 恋愛の性は元と白昼の如くなり得る者にあらず。若《も》し恋愛の性をして白昼の如くならしめば、古来大作名篇なる者、得難かるべし。恋愛が盲目なればこそ痛苦もあり、悲哀もあるなれ、また非常の歓楽、希望、想像等もあるなれ。「恋と哀は種一つ」と巣林子が歌ひけるも、恋愛が白昼の如くならざるよりの事なり。故に恋愛が人を盲目にし、人を癡愚《ちぐ》にし、人を燥狂にし、人を迷乱さすればこそ、古今の名作あるなれ、而して古今の名作は爰《こゝ》を以て造化自然の神《しん》に貫ぬくを得て、名作たるを得る所以なり。然るに彼の粋なる者は幾分か是の理に背《そむ》きて、白昼の如くなるを旨とするに似たり。盲目ならざるを尊ぶに似たり。恋愛に溺れ惑ふ者を見て、粋は之を笑ふ、総じて迷はざるを以て粋の本旨となすが如し。粋は智に近し、即ち迷道に智を用ゆる者。粋は徳に近し、即ち不道に道を立つる者。粋は仁に邇《ちか》し、即ち魔境に他を慈《いつく》しむ者。粋は義に近し、粋は信に邇し、仮偽界に信義を守る者。乃《すなは》ち迷へる内に迷はぬを重んじ、不徳界に君子たる可きことを以て粋道の極意とはするならし。之れ即ち恋愛の本性と相背反する第一点なり、凡《すべ》て恋愛は斯《かく》の如き者ならず、粋道は恋愛道に対する躓石《しせき》ならんかし。近く人口に鱠炙《くわいしや》する文里の談《はなし》の如き、尤も此説を固からしむるに足る可し。
 次に粋道と恋愛と相撞着すべき点は、粋の双愛的ならざる事なり。抑も粋は迷はずして恋するを旨とする者なり、故に他を迷はすとも自らは迷はぬを法となすやに覚ゆ。若し自ら迷はゞ粋の価直既に一歩を退《しりぞ》くやの感あり。迷へば癡なるべし、癡なれば如何にして粋を立抜《たてぬ》く事を得べき。粋の智は迷によりて已《すで》に失ひ去られ、不粋の恋愛に堕《お》つるをこそ粋の落第と言はめ。故に苟《いやし》くも粋を立抜かんとせば、文里が靡《なび》かぬ者を遂に靡かす迄に心を隠《ひそ》かに用ひて、而して靡きたる後に身を引くを以て最好の粋想とすべし。我も迷はず彼も迷はざる恋も粋なり、彼迷ひ我迷はざる間も或は粋なり、然れども我も迷ひ彼も迷ふ時、既に真の粋にあらず。
 今「伽羅枕」を読むに粋の粋を写さんとせし跡、歴々として見受けらる。佐太夫なる一美形の生涯に想像したるところを悉《こと/″\》く此粋に帰す可きにはあらねど、其境界より見れば、即ち世の俗粋をたらかし尽し、世の金銀を砂礫と見做《みな》し、世の栄華を色道の中に収め尽さんとせし心意気を見れば、彼れの出家前の日々の生涯の半ばは粋道の極意を貫ぬくにありし事知る可し。読者若し詳《つまびらか》に「伽羅枕」の後半部を読まば、彼の義気、彼の侠気、彼の毒気とを兼ね合せて、一条の粋抜く可からざるあるを見む。其の田島に対するを見よ、其幼児に対するを見よ、其幸助に嫁して後に、正助の嘱《たの》みに応じて富四郎を難なく説き伏せたる後、又た正助にも股を喰はせし粋気を見よ。而して最後に猛然悔悟して、横死《わうし》せしめし三十有余の癡漢の冥福を祈るに至りしを見よ。之れ即ち粋の本性にはあらずや。
 佐太夫始めより真の恋を味はゝざるに似たり。対手とするところ多くは霜頭の老爺にして、自らを盲目とすべきものに会はざりし。否《い》な会はざるにあらざるべし、作者の彼を写して粋癖を見《あら》はすや、已《すで》に恋愛と呼べる不粋者を度外視してかゝれるを知らざる可からず。粋癖なる者の、堅固なる恋愛の敵にして、凡てのフレールチーと相伴はざるを表はすを知らざる可からず。粋の凝りたる者には、如何なる者も矢を向くる事能はざるを示せし著者の粋道の理想、高しと言はざる可からず
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