あらざれば、戯言戯語の価直《かち》を越ゆること能はざるべし。
然はあれども尤も多く情熱の必要を認むるはトラゼヂーに於てあるべし。シユレーゲルも悲曲の要素は熱意なりと論じられぬ。熱意、情熱|畢竟《ひつきやう》するに其|素《もと》たるや一なり。情熱を欠きたる聖浄は自から講壇より起る乾燥の声の如く、美術のヱボルーシヨンには適《かな》ひ難し。情熱を欠きたる純潔は自から無邪気なる記載に止りて、将《は》た又た詩的の変化を現じ難し。情熱を欠きたる深幽は自からアンニヒレーチーブにして、物に触れて響なく、深淵の泓澄《わうちよう》たる妙趣はあれども、巨瀑空に懸つて岩石震動するの詩趣あらず。凡《およ》そ美術の壮快を極むるもの、荘厳を極むるもの、優美を極むるもの、必らず其の根底に於て情熱を具有せざるべからず。内に欝悖《うつぼつ》するところのものありて、而して外に異粉ある光線を放つべし、情熱はすべてこのものに奇異なる洗礼を施すものなり、特種の進化を与ふるものなり、「神聖」といふ語、「純潔」といふ語などに、無量の味ある所以《ゆゑん》のものは畢竟或度までは比較的のものにして、情熱と纏繋《てんけい》するに始まりて、
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