情熱の最後の洗礼によりて、終に殆んど絶対的の奇観を呈す。
 詩人は人類を無差別《ヂスインテレステツド》に批判するものなり、「神聖」も、「純潔」も或一定の尺度を以て測量すべきものにあらず、何処《どこ》までも活《い》きたる人間として観察すべきものなり、「時」と「塲所」とに涯《かぎ》られて、或る宗教の形《フオーム》に拘《かゝ》はり、或る道義の式《システム》に泥《なづ》みて人生を批判するは、詩人の忌むべき事なり。人生の活相を観ずるには極めて平静なる活眼を以てせざるべからず。写実《リアリズム》は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たるや、自から其の注目するところに異同あり、或は殊更《ことさら》に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は特更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束《おぼつか》なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因つて立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。若《
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