に存す。彼等をして作調家たらしむるも、入神《じゆしん》詩家《しか》たらしめざる者、茲に存す。而して此事ひとり景勝を咏ずる詩人に限るにあらず、人間の運命を極めんとする近代の意味に於いての文学家が、筆に役せられて文の神《しん》を失ふも、皆此理に外ならず。試に思へ、当年蕉翁の俳句を作らざる可らざるは、今日の文人が文章を捏造《ねつざう》せざる可らざるよりも甚しかりしを。況《いは》んや扶桑第一の好風に遊びて、一句を作《な》さずして帰りし事、如何許《いかばかり》の恥辱にてやありけむ。然るも、凡傭の作調家が為すこと能はざる所を蕉翁は為せり。蕉翁が余の前にひろがれる一巻の書《ふみ》なること、是を以てなり。
 われ常に謂《い》へらく、絶大の景色は文字を殺す者なりと。然るにわれ新《あらた》に悟るところあり、即ち絶大の景色は独り文字を殺すのみにあらずして、「我」をも没了する者なる事なり。絶大の景色《けいしよく》に対する時に詞句全く尽《つく》るは、即ち「我《われ》」の全部既に没了し去《さら》れ、恍惚としてわが此にあるか、彼にあるかを知らずなり行くなり。彼は我を偸《ぬす》み去るなり、否、我は彼に随ひ行くなり。玄
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