に存す。彼等をして作調家たらしむるも、入神《じゆしん》詩家《しか》たらしめざる者、茲に存す。而して此事ひとり景勝を咏ずる詩人に限るにあらず、人間の運命を極めんとする近代の意味に於いての文学家が、筆に役せられて文の神《しん》を失ふも、皆此理に外ならず。試に思へ、当年蕉翁の俳句を作らざる可らざるは、今日の文人が文章を捏造《ねつざう》せざる可らざるよりも甚しかりしを。況《いは》んや扶桑第一の好風に遊びて、一句を作《な》さずして帰りし事、如何許《いかばかり》の恥辱にてやありけむ。然るも、凡傭の作調家が為すこと能はざる所を蕉翁は為せり。蕉翁が余の前にひろがれる一巻の書《ふみ》なること、是を以てなり。
 われ常に謂《い》へらく、絶大の景色は文字を殺す者なりと。然るにわれ新《あらた》に悟るところあり、即ち絶大の景色は独り文字を殺すのみにあらずして、「我」をも没了する者なる事なり。絶大の景色《けいしよく》に対する時に詞句全く尽《つく》るは、即ち「我《われ》」の全部既に没了し去《さら》れ、恍惚としてわが此にあるか、彼にあるかを知らずなり行くなり。彼は我を偸《ぬす》み去るなり、否、我は彼に随ひ行くなり。玄々不識の中《うち》にわれは「我」を失ふなり。而して我も凡《すべ》ての物も一に帰し、広大なる一が凡てを占領す。無差別となり、虚無となり、糢糊《もこ》として踪跡《そうせき》すべからざる者となるなり。澹乎《たんこ》たり、廖廓《れうくわく》たり。広大なる一は不繋の舟の如し、誰れか能く控縛《こうばく》する事を得んや。こゝに至れば詩歌なく、景色なく、何《いづれ》を我《われ》、何を彼と見分る術《すべ》なきなり、之を冥交と曰ひ、契合とも号《なづく》るなれ。
 冥交契合の長短は、霊韻を享《う》くるの多少なり。霊韻を享くるの多少は、後に産出すべき詩歌の霊不霊なり。冥交契合の長き時は、自《おのづか》ら山川草木の中《うち》に己れと同様の生命を認め来つて、一条の万有的精神を遠暢《ゑんちやう》し、唯一の裡《うち》に円成せる真美を認め、われ彼れが一部分か、彼れわれが一部分か、と疑ふ迄に風光の中《うち》に己れを箝入《かんにふ》し得るなり。この時に当つて句を求むるも得べからず。作調家《タイミスト》は遠く離れたり。詩人は斯《かゝ》る境界にあつて、句なきを甘んずべし。蕉翁が松島に遊びて句なかりしは、果して余が読むところの如
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