て。前なる山川におし流し。春は花を手折《たをり》て。仏に手向《たむけ》奉り。秋は入る月に嘯《うそぶき》て。坐《そゞろ》に西天《にしのそら》を恋《こふ》めり。」といふに至りては、伏姫の心中既に大方の悲苦を擺脱《はいだつ》して、澄清洗ふが如くになりたらむ。八房も亦た時に至りては、読経の声に耳を傾け、心を澄《すま》し欲を離れて、只管《ひたすら》姫上《ひめうへ》を眷慕《けんぼ》するの情を断ちぬ。更に進んで「仄歩《しよくほ》山|嶮《けはし》けれども。蕨《わらび》を首陽《しゆやう》に折るの怨なく。岩窓《がんさう》に梅遅けれども。嫁《とつぎ》て胡語を学ぶの悲みなし。」といふに至りては、伏姫の心既に平滑になりて、苦痛全く痊《い》え、真如鏡面又た一物の存するなし。
 然《さ》れども亦た凡悩の夢に驚かさるゝ事、全く無きにあらず。
「有一日《あるひ》伏姫は。硯《すゞり》に水を滴《そゝが》んとて。出《いで》て石湧《しみづ》を掬《むすび》給ふに。横走《よこばしり》せし止水《たまりみづ》に。うつるわが影を見給へば。その体《かたち》は人にして。頭《かうべ》は正しく犬なりけり。」云々《しか/″\》。
とありて、之より
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