大方便と題するものは、即ち所謂コンペンセイシヨンの大法なるにあらずや。故に富山の洞を言ふ時は、馬琴の想像中に於て、因果の理法をつゞめたる一幻界に外ならじ。
 この幻界に、かの妖犬に伴はれて入りぬる伏姫はいかに。
 山峡に伴はるゝ時の決心は、身を妖犬に許せしなり。許せしとは雖《いへ》ども、肉膚を許せしにはあらず、誠心を許せしなり。この誠心は抛げて八房の首《かうべ》にかゝれり。渠《かれ》もしこの誠心を会得すれば好し、然らざれば渠を一刀に刺殺さんとの覚悟あり。彼の感得せし水晶の珠数は掛《かけ》て今なほ襟にあり、護身刀《まもりがたな》の袋の緒は常に解《とき》て右手《めて》に引着けたり、法華経八軸は暫らくも身辺を離れず、而して大凡悩大業獣に向ふこと莫逆《ばくぎやく》の朋友に対するが如し。誠心は非類にも許すべしとすれど、肉膚は堅く純潔を守りて畜生に許さず。一方には穢土穢物を嫌ひたまはざる仏の慈悲に似たるものあり、他方には餓鬼畜生の慾情と戦へる霊妙なる人類としての純潔あり。これ伏姫が洞《ほら》に入りたる時の有様なり。
「又あるときは。父母《ちゝはゝ》のおん為に。経の偈文《げもん》を謄写《かきうつ》して。前なる山川におし流し。春は花を手折《たをり》て。仏に手向《たむけ》奉り。秋は入る月に嘯《うそぶき》て。坐《そゞろ》に西天《にしのそら》を恋《こふ》めり。」といふに至りては、伏姫の心中既に大方の悲苦を擺脱《はいだつ》して、澄清洗ふが如くになりたらむ。八房も亦た時に至りては、読経の声に耳を傾け、心を澄《すま》し欲を離れて、只管《ひたすら》姫上《ひめうへ》を眷慕《けんぼ》するの情を断ちぬ。更に進んで「仄歩《しよくほ》山|嶮《けはし》けれども。蕨《わらび》を首陽《しゆやう》に折るの怨なく。岩窓《がんさう》に梅遅けれども。嫁《とつぎ》て胡語を学ぶの悲みなし。」といふに至りては、伏姫の心既に平滑になりて、苦痛全く痊《い》え、真如鏡面又た一物の存するなし。
 然《さ》れども亦た凡悩の夢に驚かさるゝ事、全く無きにあらず。
「有一日《あるひ》伏姫は。硯《すゞり》に水を滴《そゝが》んとて。出《いで》て石湧《しみづ》を掬《むすび》給ふに。横走《よこばしり》せし止水《たまりみづ》に。うつるわが影を見給へば。その体《かたち》は人にして。頭《かうべ》は正しく犬なりけり。」云々《しか/″\》。
とありて、之より月水の絶《たえ》たることを説けり。
 こゝにも亦た因果の道法を隠微の中《うち》に示顕して至妙に達せり。月水の絶たるは、仙童に訊《と》ふまでもなく懐胎の徴《しるし》なり。而してこの懐胎は八犬子を生む為にあらずして、その実《じつ》、宿因の満潮を示したるものなり。これよりして強く張りたる弦は弛《ゆる》みはじめたるなり。その体《たい》は人にして其頭は犬なりと云ふは、即ち是れ宿因の絶頂に登りたるを指すにやあらむ。
 更に進みて仙童に言はせたる予言の中《うち》に、「今この八《やつ》の子を遺《のこ》せり。八は則《すなはち》八房の八を象《かたど》り。又法華経の巻《まき》の数《かず》なり。」とあるに至りては、明らかに業と法との両者の対峙して、伏姫に臨めるを示し、遂に其宿因よりして却つて八英雄を得るに至らしめたる禍福の理法、益《ます/\》明らかなり。同じ筆意にて成れる文字この後《のち》にも見えたり、曰く「こは不思議や。と取なほして。とさまかうさま見給ふに。数とりの珠に顕れたる。如是畜生発菩提心の。八《やつ》の文字は跡もなく。いつの程にか仁義礼智忠信孝悌となりかはりて。いと鮮《あざやか》に読まれたり。」
 更に又た、
「やよ八房。わがいふ事をよく聞けかし。よに幸《さち》なきもの二ツあり。又幸あるものふたつあり。則《すなはち》吾儕《わなみ》と汝《なんぢ》なり。己れは国主の息女《むすめ》なれども。義を重しとするゆゑに。畜生に伴《ともなは》る。これこの身の不幸なり。しかれども穢《けが》し犯されず。ゆくりなくも世を遯《のが》れて。自得の門に三宝の引接《いんぜう》を希《こひねが》ひしかば。遂に念願成就して。けふ往生の素懐を遂《とげ》なん。…………又《また》只《たゞ》汝は畜生なれども。国に大功あるをもて。軈《やが》て国主の息女《むすめ》を獲たり。人畜《にんちく》の道|異《こと》にして。その欲を得遂げざれども。耳に妙法の尊《たと》きを聴《きゝ》て。…………おなじ流に身を投《なげ》て。共に彼岸《かのきし》に到れかし。」
といふに到ては、平等無差別、遙かに人間を離れて菩薩の心備はれり。誠心は隠すところなく八房に与へたり、而して不穢不犯、玲瓏《れいろう》たるチヤスチチイの処女、禍福の外に卓立し、運命の鉄柵を物ともせざるは、実《げ》にこの馬琴の想児なり。
 最後に護身刀《まもりがたな》を引抜て真一文字に掻切《
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