。つく/″\と見給ひて。此犬誠に得度《とくど》せり。怨《うらめ》るものゝ後身《さいらい》なりとも。既に仏果を得たらんには。」云々《しか/″\》。
又た義実《よしざね》が自白の言《ことば》に「かくてかの玉梓《たまづさ》が。うらみはこゝに※[#「口+慊のつくり」、107−下−12]《あきた》らず。八房の犬と生《なり》かはりて。伏姫を将《ゐ》て。深山辺《みやまべ》に。隠れて親に物を思はせ。」云々《しか/″\》。
然《さ》れば、馬琴の八房は玉梓の後身たること、仏説に拠《よ》つて因果の理を示すものなること明瞭なり、然《しか》して、この八房をして伏姫を背《お》ひ去るに至らしめたる原因は何ぞと問ふに、事成る時は、伏姫の婿《むこ》にせんと言ひたる義実の一言なり。伏姫が父を諫《いさ》めて、賞罰は政《まつりごと》の枢機なることを説き、一言は以て苟且《かりそめ》にすべからざるを言ひ、身を捐《す》てゝ父の義を立てんとするに至りては、宛然たるシバルリイの美玉なり。爰《こゝ》に至りて伏姫の「運命」を形《かたちづ》くりしもの二段階あり、その一は根本の因果にして仏説をその儘なり、而して其二は一種のコンペンセイシヨンにして、一言の失言《あやまり》より起れるものとす。其二の者は蓋《けだ》し哲学的観念より来れるものなるべし。
馬琴を論ずるもの、徒《いたづ》らに勧善懲悪を以て彼を責むるを知つて、彼の哲学的観念の酬報説に論入せざる、評家の為に惜まざるを得ず。勧善懲悪主義は支那思想より入り来りたる小説の大本の主義なれば、馬琴と雖《いへども》是に感染せざるを得ざるは勢の然らしむる所なるが、馬琴の中《うち》には別に勧懲主義排斥論をして浸犯するを得ざらしむるものゝ存するあるなり。父義実の一言を誤らざらんとて、一身の破滅を甘んずるは、シバルリイの極めて美はしき玉なり、而して其の是《これ》を実行するに至りては、海潮の干満整然として、理法の円満を描くに似たり。
伏姫の運命を形《かたちづく》りしもの、右の二者あるの外に、驚くべき配合の美と言ふべきは、八房の他の一側なり。彼は玉梓《たまづさ》の悪霊を代表すると共に、仏説の所謂《いはゆる》凡悩《ぼんなう》なるものを代表せり、この凡悩の人間に纏※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]《てんいん》するの実象を縮めて、之を伏姫と呼べる清浄無垢の女姫に加へたり。凡悩を見ること、他の多くの作家が為す如く惑溺癡迷《わくできちめい》の人物に加ふる事をせず。極めて無邪気にして極めて清潔なる一処女に附き纏はしむ。悪魔の魅力を仮用して高潔なる舞台を濁穢《ぢよくゑ》する泰西作家の妙腕は、即ち馬琴が八房の中《うち》にあり。始めは伏姫徐々として八房の後《のち》に従へり、後には八房伏姫を背にして飛鳥の如くに走れり、凡悩の人間を魅するの状を写す何ぞ一に斯《かく》の如く霊なる。輝武《てるたけ》健馬に鞭ちて逐《お》へども遂に及ばず、凡悩の魔力何んぞ人間の及ぶところならんや。雲霧深く籠《こ》めて、山洞又た人力を以て達すべき道なし、輝武の眼には川一条なり、然《さ》れども霊界の幻想を以て曰へば、川一条は人界と幻界との隔てなり。「横ざまに推倒されて」以下の文章深く味ふべし。
役行者《えんのぎやうじや》は蓋し「天命」の使者なるべし。是《これ》に就きて言ふべき事あれど本題を離るゝ事遠ければ茲《こゝ》には言はず、唯だ読者と共に記憶すべきは、伏姫が幼少の時に行者より得たる珠数の事なり。馬琴の深く因果の理法を信ずるや、普通の作家の如く行《ぎやう》の奇跡を以て伏姫の業因を断たしむることなく、却《かへ》つて彼《かの》八行の珠玉を与へて、伏姫の運命の予言者とならしめ指導者とならしめたるもの、支那小説の古套とは言へ馬琴の妙筆にあらざれば、斯の如き照応を得ること能はざらむ。
次に観察すべきは富山洞《とやまのほら》なり。富山洞はいかなる種類の幻界なるべきや。
人間世界を因果転輪の車の上に立つものとせば、富山は馬琴の想像中にありて因果の車の軸なり。因果の理法の盈満《コンプリケイシヨン》を示したるものは富山洞《とやまのほら》のトラヂヱヂイにして、富山はこの理法をあらはしたる舞台なり。伏姫は世を捨てつ世に捨てられて此山に入れり。この山の真相を言へば、一方に経文あり。一方に凡悩あり。一方に仙縁あり。一方に毒業あり。一方に無染あり。一方に無慾あり。一方に菩提あり。一方に畜生あり。表面を仏界なりとせば、裡面《りめん》は魔界なり。表面を魔界なりとすれば、裡面は仏界なり。仏が魔か、魔が仏か、一なるが如く他なるが如く、紛乱錯綜いづれをいづれと定め難し。斯くの如くにして業因業果の全く盈満《えいまん》するまでは、一箭《いつせん》の飛んで勢の尽くるまでは、落ちざるが如きを示せり。これ幻界なり。権者《ごんじや》の
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