処女の純潔を論ず
(富山洞伏姫の一例の観察)
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)而《しか》して

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無害|無痍《むい》にして

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)益《ます/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 天地愛好すべき者多し、而《しか》して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、瑠璃《るり》、真珠を尊としとせば、処女の純潔《チヤスチチイ》は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり。もし人生を汚濁穢染《をぢよくゑせん》の土《ど》とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しと言はむ、もし世路を荊棘《けいきよく》の埋むところとせば、処女の純潔は無害|無痍《むい》にして荊中に点ずる百合花とや言はむ、われ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれども、人間の言語恐らくは此至宝を形容し尽くすこと能はざるべし。噫《あゝ》人生を厭悪するも厭悪せざるも、誰か処女の純潔に遭《あ》ふて欣楽せざるものあらむ。
 然《さ》れども我はわが文学の為に苦しむこと久し。悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず。徳川氏時代の戯作家は言へば更なり、古への歌人も、また彼《か》の霊妙なる厭世思想家|等《など》も、遂に処女の純潔を尊むに至らず、千載の孤客をして批評の筆硯に対して先づ血涙一滴たらしむ、嗚呼《あゝ》、処女の純潔に対して端然として襟《えり》を正《たゞし》うする作家、遂に我が文界に望むべからざるか。
 夫《そ》れ高尚なる恋愛は、其源を無染無汚の純潔に置くなり。純潔《チヤスチチイ》より恋愛に進む時に至道に叶《かな》へる順序あり、然《しか》れども始めより純潔なきの恋愛は、飄漾《へうやう》として浪に浮かるゝ肉愛なり、何の価直《かち》なく、何の美観なし。
 わが国の文学史中に偉大なる理想家なしとは、十指の差すところなり。近世のローマンサーなる曲亭馬琴に至りては批評家の月旦《ひひやう》甚だ区々たり、われも今|卒《には》かに彼を論評する事を欲せず。細論は後日を期しつ、試みに彼が一代の傑作たる富山《とやま》の奥の伏姫《ふせひめ》を観察して見む。ロマンチック・アイデアリストとしての馬琴の一端は、之を以て窺《うかゞ》ひ知るを得んか。
 わが美文学は、宗教との縁甚だ深からず、別して徳川氏の美文学を以て然りとなす。俳道の達士桃青翁を除くの外《ほか》、玄奥なる宗教の趣味を知りたる者あらず、是あるは恐らく馬琴なるべし、然《しかれ》ども桃青と馬琴とは其方向を異にして仏教の玄奥に入れり、もし桃青の仏教を一言の下《もと》に評するを得ば彼は入道したるなり、もし馬琴の仏教を一言の下に表はすことを得ば彼は知道なり、桃青は履践《りせん》し、馬琴は観念せり、桃青は宗教家の如くに仏道をその風流修行に応用したり、馬琴は哲学者の如くに仏道を其理想中に適用したり、桃青の仏道は不立文字《ふりふもんじ》にして、馬琴の仏道は寧《むし》ろ小乗的なるべし。われは桃青を俳道の偉人として尊敬すると共に、馬琴を文界の巨人として畏敬せざるを得ず。
 軽浮剽逸なる戯作者流を圧倒して、屹然《きつぜん》思想界に聳立《しようりつ》したる彼の偉功の如きは、文学史家の大に注目すべきところなるべし。然《しか》れども是等の事、凡《すべ》てわが論題外なり、いで富山の洞《ほら》に寂座《せきざ》し玉ふ伏姫を観察せむ。
「八犬伝」一篇を縮めて、馬琴の作意に立還《たちかへ》らば、彼はこの大著作を二本の角の上に置けり。其一はシバルリイと儒道との混合躰にして、他の一は彼の確信より成れる因果の理法なり。全篇の大骨子を彼《か》の仁義八行の珠数《じゆず》に示したるは、極めて美くしく儒道と仏道とを錯綜せしめたるものなり。その結構より言ふ時は、第一輯は序巻なり、而して第二輯の第一巻は全篇の大発端にして、其|実《じつ》は「八犬伝」一部の脳膸なり、伏姫の中に因果あり、伏姫の中に業報あり、伏姫の中に八犬伝あるなり、伏姫の後《のち》の諸巻は、俗を喜ばすべき侠勇談あるのみ。
 伏姫に対する八房《やつふさ》は馬琴の創作にあらずと難ずるものもあれど、余はむしろ此を馬琴の功に帰するものなり。試みに八房を把《と》りて※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]察して見む。伏姫を観るの順序に於て斯くするを至当と思へばなり。
 八房の前世は、彼の金碗孝吉《かなまりたかよし》に誅せられたる奸婦|玉梓《たまづさ》なり。
「伏姫は此|形勢《ありさま》を
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