痩腕をもて活計の道に奔走するの止むを得ざるに至りし事もあり。わが頑骨を愛して我が犠牲となりし者の為に、半知己の友人を過《あやま》ちたりし事もあり。修道の一念甚だ危ふく、あはや餓鬼道に迷ひ入らんとせし事もあり、天地の間に生れたるこの身を訝《いぶ》かりて、自殺を企てし事も幾回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭《しんとう》を洩れて、この老知己に対する懺悔となり、刻《とき》のうつるも知らで語りき。
 しばらくありて老婆は酒を暖め来りて、飲まずと言ふ我に一杯を強ひ、これより談話一転して我幻境の往事《わうじ》に入れり。淡泊洗ふが如き孤剣の快男児(蒼海)この席の談笑を共にせざるこそ終生の恨なり。少婦《せうふ》も出で来り、当時の主人なる無口男も席に進みて、或は旧時の田花の今は已に寡婦になりしを語り、或は近家の興廃浮沈に説き及び、或は我が棲《す》むところを問ひなどしつ、この夜の興味は抹《まつ》すべからざる我生涯の幻夢なるべし。就中《なかんづく》、老母は我が元来の虚弱にて学道《まなびのみち》に底なき湖《うみ》を渡るを危ぶみて、涙を浮べて我が健全を祈るなど、都に多き知己にも増して我が上を思ふの真情、
前へ 次へ
全19ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング