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 浮世に背き微志を蓄へてより、世路|酷《はなは》だ峭嶢《せうげう》、烈々たる炎暑、凄々《せい/\》たる冬日、いつはつべしとも知らぬ旅路の空をうち眺めて、屡《しば/\》、正直男と共に故郷なつかしく袖を涙にひぢしことあり。
 われは函嶺《かんれい》の東、山水の威霊少なからぬところに産《うま》れたれば、我が故郷はと問はゞそこと答ふるに躊躇《ためら》はねども、往時の産業は破れ、知己親縁の風流雲散せざるはなく、快く疇昔《そのかみ》を語るべき古老の存するなし。山水もはた昔時に異なりて、豪族の擅横《せんわう》をつらにくしとも思《おもは》ずうなじを垂るゝは、流石《さすが》に名山大川の威霊も半《なかば》死せしやと覚《おぼえ》て面白からず。「追懐《レコレクシヨン》」のみは其地を我故郷とうなづけど、「希望《ホープ》」は我に他《ほか》の故郷を強ゆる如し。
 回顧すれば七歳のむかし、我が早稲田にありし頃、我を迷はせし一幻境ありけり。軽々しくも夙少《わか》くして政海の知己を得つ、交りを当年の健児に結びて、欝勃《うつぼつ》沈憂のあまり月を弄《ろう》し、花を折り、遂には書を抛《な》げ筆を投じて、
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