らかに、義太夫の節に巧みに、刀剣の鑑定にぬきんで、村内の葛藤を調理するに威権ある二十貫男、むかし三段目の角力《すまふ》を悩ませし腕力たしかに見えたり。
わが幻境は彼あるによりて幻境なりしなり。わが再遊を試みたるも寔《まこと》に彼を見んが為なりしなり。我性尤も侠骨を愛す。而して今日の社界まことの侠骨を容るゝの地なくして、剽軽《へうけい》なる壮士のみ時を得顔に跳躍せり。昨日の一壮士、奇運に遭会し代議士の栄誉を荷ひて議場に登るや、酒肉足りて脾下《ひか》見苦しく肥ゆるもの多し、われは此輩に会ふ毎に嘔吐を催ふすの感あり。世に知られず人に重んぜられざるも胸中に万里の風月を蓄へ、綽々《しやく/\》余生を養ふ、この老侠骨に会はんとする我が得意は、いかばかりなりしぞ。
車を下《を》り閉せし雨戸を叩《たゝ》かんとするに、むかしながらの老婆の声はしはぶきと共に耳朶《じだ》をうちぬ。次いで少婦《せうふ》の高声を聞きぬ。わが手は戸に触れて音なふ声と共に、中には早や珍客の来遊におどろける言葉を洩らせるものあり。わが音《おん》むかしに変らぬか、なつかしきものは往日《わうじつ》の知音《ちいん》なり。戸は開かれて我は迎へ入れられしが、老畸人の面《おもて》を見ず、之を問へば八王子にありと言ふ、八王子ならば車を駆つて過《よ》ぎり来《き》しものを、この時われは呆然として為すところを知らず。
埋火《うづみび》をかき起して炉辺《ろへん》再びにぎはしく、少婦は我と車夫との為に新飯を炊《かし》ぎ、老婆は寝衣《しんい》のまゝに我が傍にありて、一枚の渋団扇《しぶうちは》に清風をあほりつゝ、我が七年の浮沈を問へり。ふところに収めたる当世風の花簪《はなかんざし》、一世一代の見立《みたて》にて、安物ながらも江戸の土産《みやげ》と、汗を拭きふき銀座の店にて購《か》ひたるものを取出して、昔日《むかし》の少娘《こむすめ》のその時五六歳なりしものゝ名を呼べば、早や寝床に入れりと言ふ、枉《ま》げてその顔見せてよと乞へば、やがて出で来りて一礼す。驚かるゝまでに変りて、その名にしれし年の数もかさなりて、今は十三歳と聞けばなつかしき山百合《やまゆり》の、いま幾年《いくとせ》たゝば人目にかゝらむなど戯れける中《うち》に、老婆は他《ほか》の小娘の、むかしの少娘のとしばへなるものを抱《いだ》き来りて我を驚ろかせぬ。その名をぬひと呼ぶと聞き
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