友を失ひしによりて大に増進し、この後幾多の苦獄を経歴したるは又た是非もなし。
狂ひに狂ひし頑癖も稍《やゝ》静まりて、茲年《ことし》人間生活の五合目の中阪にたゆたひつゝ、そゞろに旧事を追想し、帰心矢の如しと言ひたげなるこの幻境に再遊の心は、この春松島に遊びし時より衷裡《ちゆうり》を離れず。幸にして大坂の事ありてより消息絶えて久しき蒼海も、獄を出でゝ近里に棲《す》めば、書を飛ばして三個《みたり》同遊せんことを慫《すゝ》むるに、来月まで待つべしとの来書なり。我は一日を千秋と数へて今日まで待ちつるものを、今更に閑暇を得ながら行くべきところに行かぬは、あさはかな心の虫の焦《いら》つを抑へかねて、一書を急飛し、飄然《へうぜん》家を出でゝ彼幻境《かのげんきやう》に向ひたるは去月二十七日。
この境《きやう》、都を距《へだつ》ること遠からず、むかし行きたる時には幾度《いくたび》か鞋《わらぢ》の紐をゆひほどきしけるが、今は汽笛一声新宿を発して、名にしおふ玉川の砧《きぬた》の音も耳には入らで、旅人の行きなやむてふ小仏の峰に近きところより右に折れて、数里の山径《やまみち》もむかしにあらで腕車《わんしや》のかけ声すさまじく、月のなき桑野原、七年の夢を現《うつゝ》にくりかへして、幻境に着きたる頃は夜も既に十時と聞きて驚ろきたり。この幻境の名は川口村|字《あざ》森下《もりした》、訪ふ人あらば俳号|龍子《りゆうし》と尋ねて、我が老畸人を音づれよかし。
龍子は当年六十五歳、元と豪族に生れしが少《わか》うして各地に飄遊し、好むところに従ひて義太夫語りとなり、江都《えど》に数多き太夫の中《うち》にも寄席に出でゝは常に二枚目を語りしとぞ。然《さ》れども彼は元来|一個《ひとり》の侠骨男子、芸人の卑下なる根性を有《も》たぬが自慢なれば、あたらしき才芸を自ら埋没して、中年家に帰り父祖の産を継ぎたりしかど、生得の奇骨は鋤犂《じより》に用ゆべきにあらず、再三再四家を出でゝ豪侠を以て自から任じ、業は学ばずして頭領株の一人となり、墨つぼ取つては其道の達人を驚かしめ、風流の遊塲《あそびば》に立ちては幾多の佳人を悩殺して今に懺悔《ざんげ》の種を残し、或時は剣《つるぎ》を挺して武人の暴横に当り、危道を蹈み死地に陥りしこと数を知らず。然《さ》れども我が知りてよりの彼は、沈静なる硬漢、風流なる田人、園芸をわきまへ、俳道に明
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