ありがたしとも尊《た》ふとしとも言はん方なし。
この夜の紙帳《しちやう》は広くして、我と老侠客と枕を並べて臥せり、屋外の流水、夜の沈むに従ひて音高く、わが遊魂を巻きて、なほ深きいづれかの幻境に流し行きて、われをして睡魔の奴《ど》とならしめず。翁も亦《ま》たねがへりの数に夢|幾度《いくたび》かとぎれけむ、むく/\と起きて我を呼び、これより談話俳道の事、戯曲の事に闌《たけなは》にして、いつ眠《ね》るべしとも知られず。われは眠《ねむ》りの成らぬを水の罪《とが》に帰して、
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七年を夢に入れとや水の音
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と吟《よ》みけるに、翁はこれを何とか読み変へて見たり。翁未だ壮年の勇気を喪《うしな》はざれど、生年限りあれば、かねて存命に石碑を建つるの志あり、我が来るを待ちて文を属《しよく》せしめんとの意を陳《のべ》ければ、我は快よく之を諾しぬ、又た彼の多年苦心して集めし義太夫本、我を得て沈滅の憂ひなきを喜び、其没後には悉皆《しつかい》我に贈らんと言ひければ、我は其好意に感泣しぬ。翁の秀逸一二を挙ぐれば、
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夢いくつさまして来しぞほとゝぎす
こゝに寝む花の吹雪に埋《うづ》むまで
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なほ名吟の数多くあり、我他日、翁の為に輯集《しふ/\》の労を取らんことを期す。この夜、翁の請に応じて即吟、白扇に題したる我句は、
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越えて来て又|一峰《ひとみね》や月のあと
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暁天の白むまで眠り得ず、翌朝日|闌《た》けて起き出でたるは、いつの間にか明方の熟睡に入りたりしと覚ゆ。蒼海遂に来らねば、老侠と我と車を双《なら》べて我幻境の門を出づ、この時老婆は呉々も我再遊の前《さき》の如く長からざるべきを請ふに、この秋再びと契りて別れたり。行くところは高雄山。同伴《つれ》はおもしろし、別して月も宵にはあるべし、この夜の清興を思へば、涼風|盈《み》ちて車上にあり。
(下)
むかしわれ蒼海と同《とも》に彼幻境に隠れしころ、山に入りて炭焼、薪木樵《たきゞこり》の業《わざ》を助くるをこよなき漫興となせしが、又た或時は彼家《かのいへ》の老婆に破衣《やれぎぬ》を借りて、身をやつしつ炭売車《すみうりぐるま》の後《あと》に尾《つ》きて、この市《まち》に出づるをも楽しみき。
斯《か
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