《くさみち》をたどり、我幻境にかへりけり、この時弦月漸く明らかに、妙想胸に躍り、歩々天外に入るかと覚えたり。
楼上には我を待つ畸人あり、楼下には晩餐《ばんさん》の用意にいそがしき老母あり、弦月は我幻境を照らして朦朧《もうろう》たる好風景、得《え》も言はれず。階を登れば老侠客|莞爾《くわんじ》として我を迎へ、相見て未だ一語を交《か》はさゞるに、満堂一種の清気|盈《み》てり。相見ざる事七年、相見る時に驟《には》かに口を開き難し、斯般《このはん》の趣味、人に語り易からず。始めは問答多からず、相対して相笑ふのみなりしが、漸く談じ漸く語りて、我は別後の苦戦を説き起しぬ。
この過去の七年、我が為には一種の牢獄にてありしなり。我は友を持つこと多からざりしに、その友は国事の罪をもつて我を離れ、我も亦た孤※[#「煢−冖」、第4水準2−79−80]《こけい》為すところを失ひて、浮世の迷巷に蹈み迷ひけり。大俗の大雅に双《くら》ぶべきや否やは知らねど、我は憤慨のあまりに書を売り筆を折りて、大俗をもつて一生を送らんと思ひ定めたりし事あり、一転して再び大雅を修めんとしたる時に、産破れ、家|廃《すた》れて、我が痩腕をもて活計の道に奔走するの止むを得ざるに至りし事もあり。わが頑骨を愛して我が犠牲となりし者の為に、半知己の友人を過《あやま》ちたりし事もあり。修道の一念甚だ危ふく、あはや餓鬼道に迷ひ入らんとせし事もあり、天地の間に生れたるこの身を訝《いぶ》かりて、自殺を企てし事も幾回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭《しんとう》を洩れて、この老知己に対する懺悔となり、刻《とき》のうつるも知らで語りき。
しばらくありて老婆は酒を暖め来りて、飲まずと言ふ我に一杯を強ひ、これより談話一転して我幻境の往事《わうじ》に入れり。淡泊洗ふが如き孤剣の快男児(蒼海)この席の談笑を共にせざるこそ終生の恨なり。少婦《せうふ》も出で来り、当時の主人なる無口男も席に進みて、或は旧時の田花の今は已に寡婦になりしを語り、或は近家の興廃浮沈に説き及び、或は我が棲《す》むところを問ひなどしつ、この夜の興味は抹《まつ》すべからざる我生涯の幻夢なるべし。就中《なかんづく》、老母は我が元来の虚弱にて学道《まなびのみち》に底なき湖《うみ》を渡るを危ぶみて、涙を浮べて我が健全を祈るなど、都に多き知己にも増して我が上を思ふの真情、
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