子《ひとりご》イエス・キリストを遣はして我等を罪の囚禁より救ひ出して、永生《かぎりなきいのち》をもつべきこのつとめに導きたまふなり。「また受造者《つくられしもの》みづから敗壊《やぶれ》の奴《しもべ》たることを脱れ神の諸子《こたち》の栄《さかえ》なる自由に入《いら》んことを許《ゆるさ》れんとの望を有《たもた》されたり」(羅馬書第八章二十一節)とあるは即ち是《これ》なり。職司《つとめ》の種類の中《うち》には、主につけるものにあらずして、その表面は極めて格好に且つ怡楽《たのし》きものなるに似たれど、終りには、死を意味するものあり。険を冒し奇を競ふ世の中《なか》には、利益と名誉とを修《をさ》むるの途甚だ多し、而して尤も利益あり、尤も成功ありと見ゆるものは人を害し人を傷《そこな》ふ的《てき》の物品の製造なり。斯《かく》の如く一時の利益の為に労役する人々は遂には、肉と、霊とを合せて之を死に付すものと言はざる可からず。
 彼等は実に彼等自身を賈《こ》に売り付すものなり、その最後に得るところは悉《こと/″\》く空なり、ひとり空なるのみならず、罪の重荷あり、罪の終なる死あり、豈に悲まざるべけんや。
 主
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