歩は転化と異なれり、若し進歩の一語の裡に極めて危険なる分子を含めることを知らば、世の思想家たる者、何ぞ相戒めて、如何に真正の進歩を得べきやを講究せざる。国民のヂニアスは、退守と共に退かず、進歩と共に進まず、その根本の生命と共に、深く且つ牢《かた》き基礎を有せり、進歩も若し此れに協《かな》はざるものならば進歩にあらず、退守も若し此れに合《あは》ざるものならば退守にあらず。
(6)[#「(6)」は縦中横] 地平線的思想
政事の論議に従事し、一代の時流を矯正して、民心の帰向を明らかにする思想家、素より偏見|僻説《へきせつ》を頑守し、衆を以て天下を脅かす的《てき》の所謂《いはゆる》政事家なるものに比較すべきにあらず。然れども其の説くところ概《おほむ》ね卑近にして、俚耳《りじ》に入り易きの故を以て、人之を俗物と称す。吾人は、斯の如き俗物の感化が、今の米国を造り、今の所謂文明国なるものを造るに於て大なる力ありし事を信ずる者なり。凡そ適切なる感化を民衆に施こして、少歳月の中に大なる改革を成就すること、多くは謂ふ所の俗物なるものゝ力にあり、マコーレーも或意味に於ては俗物なり、ヱモルソンも或意味に於ては俗物なり、彼等は実に俗物なりしが故にグレートなりしなり。教養《カルチユーア》は素《も》と自然を尊びて、真朴を主とするものなり、古より大人君子の成せしところ、蓋《けだ》し之に過ぐるなきなり、平坦なる真理は遂に天下に勝つべし、此意味に於て吾人は所謂俗物なるものを崇拝するの心あり。然れども、爰に記憶せざるべからざることあり。世間幾多の平坦なる真理を唱ふるものゝ中には、平坦を名として濫《みだ》りに他の平坦ならざるものを罵り、自から謂《おも》へらく、平坦なるものにあらざれば真理にあらずと。斯の如きは即ち真理を見るの眼にあらずして、平坦を見るの眼なり。
思想界には地平線的思想と称すべき者あり、常に人世《アース》の境域にのみ心を注《あつ》め、社界を改良すと曰ひ、国家の福利を増すと曰ひ、民衆の意向を率ゆと曰ひ、極《きはめ》て尨雑《ばうざつ》なる目的と希望の中に働らきつゝあり。国民は尤も多く此種の思想家を要す、凡そ此種の思想家なき所には何の活動もなく、何の生命もなし、然れども記憶せよ、国民は此種の思想家のみを以て甘んずべきにあらざるを。真正のカルチユーアを国民に与ふるが為には、地平線的
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