し》悄然として立つこと少時、渠《かれ》を招きて与《とも》に車を推し、之を小亭に引きて飯を命じ、鮮魚を宰《さい》して食はしめ、未だ言を交ゆる事多からず、其の旧事を回想せしめん事を恐るればなり。われ先づ去る、去る時語なく、無限の情あり。

     其六 海浴

 酒にあらず、色にあらず、人生憂を鎖するの途、豈《あに》少なからんや。炎熱|焦《や》くが如く樹葉皆な下垂するの時、海に下りて衣を脱すれば涼気先づ来る。浪高く小砂を転じ、忽《たちま》ち捲いて忽ち落つ、之れを見て快意そゞろに生じ、身を飜《ひるがへ》して浪上にのぼれば、自から虚舟の思あり。手を抜いて躰を進むるに心甚だ壮なり。濤声うしろに響いて気更に昂り、疲倦するまで還るを忘る。惜しいかな旅嚢《りよなう》バイロンの詩集を携へず、その游泳の歌をこの浪上に吟ずるを得ざるを。

     其七 初月

 黄昏《たそがれ》家を出で、暫らく水際に歩して還《ま》た田辺に迷ふ。螢火漸く薄くして稲苗|将《まさ》に長ぜんとす。涼風葉を揺《うご》かして湲水《くわんすゐ》音を和し、村歌起るところに機杼《きじよ》を聴く。初月楚々として西天に懸り、群星更に光甚を争
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