し》悄然として立つこと少時、渠《かれ》を招きて与《とも》に車を推し、之を小亭に引きて飯を命じ、鮮魚を宰《さい》して食はしめ、未だ言を交ゆる事多からず、其の旧事を回想せしめん事を恐るればなり。われ先づ去る、去る時語なく、無限の情あり。
其六 海浴
酒にあらず、色にあらず、人生憂を鎖するの途、豈《あに》少なからんや。炎熱|焦《や》くが如く樹葉皆な下垂するの時、海に下りて衣を脱すれば涼気先づ来る。浪高く小砂を転じ、忽《たちま》ち捲いて忽ち落つ、之れを見て快意そゞろに生じ、身を飜《ひるがへ》して浪上にのぼれば、自から虚舟の思あり。手を抜いて躰を進むるに心甚だ壮なり。濤声うしろに響いて気更に昂り、疲倦するまで還るを忘る。惜しいかな旅嚢《りよなう》バイロンの詩集を携へず、その游泳の歌をこの浪上に吟ずるを得ざるを。
其七 初月
黄昏《たそがれ》家を出で、暫らく水際に歩して還《ま》た田辺に迷ふ。螢火漸く薄くして稲苗|将《まさ》に長ぜんとす。涼風葉を揺《うご》かして湲水《くわんすゐ》音を和し、村歌起るところに機杼《きじよ》を聴く。初月楚々として西天に懸り、群星更に光甚を争ふ。夐《はるか》に濤声を聴くは楽を奏するを疑ひ、仰いで天上を視れば画を展《の》ぶるが如し。歩々人境を離れて天景に赴く、人間《じんかん》この味あり、曷《いづく》んぞ促々《そく/\》として功名の奴とならむ。
其八 憶友
都を出る時、友ありて病に臥す。彼は堅実の一学生、学成りて躰|茲《こゝ》に弱し、病を得て数月未だ愈《い》ゆるに及ばず、痩癈《そうはい》せば遂に如何《いかん》。われ尤も之を憶ふ。
都を出る時、遠く西方に旅する友と約するあり、東海道の某地を卜して相会見せんとす、期する日は明後、彼は西より来り、我は東よりせん、相見る時、情|奈何《いかん》。われ尤も之を憶ふ。
之を憶ふに、一は悲しく、一は楽し、「悲楽」本来何者ぞ。縦《ほしいまゝ》に我が心胸に鑿入《さくにふ》して、わが「意志」の命を仰がず。
其九 晩食
詩客元来淡菜を愛す。酢味糟《すみそ》あらば、と吟じたる俳客の意、自から分明なり。爰《こゝ》に鮮魚あり、又た鮮蔬《せんそ》あり、都城の豊肉何ぞ思ひ願ふことを要せむ。市ヶ谷の詩人、今如何。「三籟」紙面の趣味、之を此の清淡に比して如何。
其十
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング