思はざらむ。狂女心底より狂ならず、醒《さ》め来りて一夜|悲悼《ひたう》に堪《た》へず、児の血を濺《そゝ》ぎしところに行きて己れを殺さんとす、己れを殺す為に、その悲しき塲所に独り行くことを得ず、却《かへ》つて路傍の人を連れ立てんことを請ふ、狂にして狂ならず、狂ならずして猶ほ狂なり、あわれや子を思ふ親の情の、狂乱の中に隠在すればなるらむ。その狂乱の原《もと》はいかに。渠《かれ》が出でがけに曰ひし一言、深く社会の罪を刻めり。
 昨夜は淵明が食を乞ふの詩を読みて、其清節の高きに服し、今夜は惨憺《さんたん》たる実聞をものして、思はず袖を湿《ぬ》らしけり。知らぬうちとて、黙思逍遙の好地と思ひしところ、この物語を聞きてよりは、自《おのづ》からに足をそのあたりに向けずなりにき。かの地に住みし時この文を作らず、却つて今の菴《いほり》にうつりて之を書くは、わが悲悼の念のかしこにては余りに強かりければなり。思へば世には不思議なるほどに酸鼻《さんび》のこともあるものかな。
[#地から2字上げ](明治二十五年十一月)



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)
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