こた》ることなく、妻も日頃謹慎の質にして物多く言はぬほど糸針の道には心掛ありしとのうはさなり。かゝればかまどの烟細しとは言ひながら、其日其日を送るに太き息|吐《つ》く程にはあらず、折には小金貸し出す勢ひさへもありきと言ふものもありけり。
 妻の何某《なにがし》はいつの頃よりか、何となく気欝の様子見え始めたれど、家内《かない》のものは更なり、近所合壁のやからも左《さ》したる事とは心付かず、唯だ年|長《た》けたる娘のみはさすが、母の気むづかしげなるを面白からず思ひしとぞ。世のありさま、三四年このかた金融の逼迫《ひつぱく》より、種々《さま/″\》の転変を見しが、別して其日かせぎの商人《あきびと》の上には軽からぬ不幸を生ぜしも多かり。正直をもて商売するものに不正の損失を蒙《かうむ》らせ、真面目に道を歩むものに突当りて荷を損ずるやうの事、漸《やうや》く多くなれりと覚ゆ。かの夫妻未だ左したる困厄《こんやく》には陥《おちい》らねど、思はしからぬが苦情の元なれば、時として夫婦顔を赤めるなどの事もありしとぞ。裡家風情《うらやふぜい》の例として、其日に得たる銭をもて明日《あす》の米を買ふ事なれば、米一粒の
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