鬼心非鬼心
(実聞)
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仮の宿《やどり》と
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この夏|霎時《しばらく》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](明治二十五年十一月)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)るゐ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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悲しき事の、さても世には多きものかな、われは今読者と共に、しばらく空想と虚栄の幻影を離れて、まことにありし一悲劇を語るを聞かむ。
語るものはわがこの夏|霎時《しばらく》の仮の宿《やどり》とたのみし家の隣に住みし按摩《あんま》男なり。ありし事がらは、そがまうへなる禅寺の墓地にして、頃は去歳《こぞ》の初秋とか言へり。
二本榎《にほんえのき》に朝夕の烟も細き一かまどあり、主人《あるじ》は八百屋にして、かつぎうりを以《も》て営《いとなみ》とす、そが妻との間に三五ばかりなる娘ひとりと、六歳《むつ》になりたる小児とあり、夫《つま》は実直なる性《さが》なれば家業に懈《おこた》ることなく、妻も日頃謹慎の質にして物多く言はぬほど糸針の道には心掛ありしとのうはさなり。かゝればかまどの烟細しとは言ひながら、其日其日を送るに太き息|吐《つ》く程にはあらず、折には小金貸し出す勢ひさへもありきと言ふものもありけり。
妻の何某《なにがし》はいつの頃よりか、何となく気欝の様子見え始めたれど、家内《かない》のものは更なり、近所合壁のやからも左《さ》したる事とは心付かず、唯だ年|長《た》けたる娘のみはさすが、母の気むづかしげなるを面白からず思ひしとぞ。世のありさま、三四年このかた金融の逼迫《ひつぱく》より、種々《さま/″\》の転変を見しが、別して其日かせぎの商人《あきびと》の上には軽からぬ不幸を生ぜしも多かり。正直をもて商売するものに不正の損失を蒙《かうむ》らせ、真面目に道を歩むものに突当りて荷を損ずるやうの事、漸《やうや》く多くなれりと覚ゆ。かの夫妻未だ左したる困厄《こんやく》には陥《おちい》らねど、思はしからぬが苦情の元なれば、時として夫婦顔を赤めるなどの事もありしとぞ。裡家風情《うらやふぜい》の例として、其日に得たる銭をもて明日《あす》の米を買ふ事なれば、米一粒の尊さは余人の能《よ》く知るところにあらず。或日の事とて妻は娘を家に残しつ、小児を携へて出で行きしが、米買ふ銭を算《かぞ》へつゝ、ふと其口を洩れたる言葉は「もしこの小児なかりせば、日々に二銭を省くことを得べきに」なりし。之を聞きたる小娘《むすめ》は左までに怪しみもせざりし。その容貌にも殊更に思はるゝところはあらざりしとなむ。
このあたりの名寺なる東禅寺は境広く、樹古く、陰欝として深山《しんざん》に入るの思《おもひ》あらしむ。この境内に一条の山径《やまみち》あり、高輪《たかなわ》より二本榎に通ず、近きを択《えら》むもの、こゝを往還することゝなれり。累々《るゐ/\》たる墳墓の地、苔滑らかに草深し、もゝちの人の魂魄《こんぱく》無明の夢に入るところ。わがかしこに棲《す》みし時には、朝夕杖を携へて幽思を養ひしところ。又た無邪気の友と共に山いちごの実を拾ひて楽みしところなり。
家を出でゝ程久しきに、母も弟も還ること遅し、鴉は杜《もり》に急げども、帰らぬ人の影は破れし簷《のき》の夕陽《ゆふひ》の照光《ひかり》にうつらず。幾度《いくたび》か立出でゝ、出で行きし方を眺むれど、沈み勝なる母の面《おもぶせ》は更なり、此頃とんぼ追ひの仲間に入りて楽しく遊びはじめたる弟の形も見えず。日は全く暮れぬれども未だ帰らず。案じわびて待つうちに、雨戸の外に人の音しければ急ぎ戸を開くに、母ひとり忙然として立てり。その様子怪しげに見えはせしものゝ、いかに悲しき事のありけんとは思ひもよらず。弟は、と問へば、しばし黙然たりしが、何かは知らず太息《ためいき》と共に、あれは殺して来たよ、と答へぬ。
始めは戯れならむと思ひしが、その容貌《ようばう》の青ざめたるさへあるに、夜の事とて共に帰らぬ弟の身の不思議さに、何処にてと問ひければ、東禅寺|裡《うら》にて、と答ふ。驚ろき呆れて、半ば疑ひながらも、母の言ひたるところに、走り行きて見れば、こはいかに、無残や一人の弟は倒《さかさ》まに、墓の門なる石桶にうち沈められてあり。其傍になまぐさき血の迸《ほとばし》りかゝれる痕を見《みた》りと言へば、水にて殺せしにあらで、石に撃つけてのちに水に入《いれ》たりと覚《おぼえ》たり。気も絶え入《いら》んほどに愕《おどろ》き惑ひしが、走り還りて泣き叫びつゝ、近隣の人を呼《よび》ければ、漸く其筋の人も来りて死躰の始末は終りしが、殺せし人の
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