継《まゝ》しき中にもあらぬ母の身にてありながら、鬼にもあらぬ鬼心《おにごゝろ》をそしらぬものもなかりけり。
 東禅寺寺内より高輪の町に出でんとする細径《ほそみち》に覆ひかゝれる一老松あり。昼は近傍《きんりん》の頑童等《わらべら》こゝに来りて、松下の細流に小魚を網《あみ》する事もあれど、夜に入りては蛙のみ雨を誘ひて鳴き騒げども、その濁れる音調を驚ろき休《や》ます足音とては、稀に聞くのみなり。寺内に棲みける彼の按摩、その業《わざ》の為にはかゝる寂寥《さびしさ》にも慣れたれば、夜出でゝ夜帰るに、こはさといふもの未だ覚え知らず、五月雨《さみだれ》の細々たる陰雨の中《うち》に一二度は彼《かの》燐火をも見たれど、左して怖るゝ心も起らじと言へり。
 雨少しくそぼちて、桐の青葉の重げに垂《た》るゝ一夜、暮すぎて未《ま》だ程もあらせず、例の如く家を出でゝ彼の老松《らうしよう》の下《もと》に来掛りし時、突然|片影《かたかげ》より顕はれ出《いづ》るものありと見る間《ま》に、わが身にひたとかじりつき、逃げんとするも逃げられず、胆《きも》潰《つぶ》れながらも、其人を見れば、髪は乱れて肩にからみ、色は夜目にも青白ろく、鬼にやあらむ人にやあらむ、と思ふばかり、身はわな/\とふるひて、振り離さん程の力もなくなれり。やうやく気を沈めて其人の態《さま》をつく/″\打ち眺むれば、まがふ方《かた》なき狂女なり。さては鬼にもあらずと心|稍々《やゝ》安堵したれば、何故《なにゆゑ》にわれを留《と》むるやと問ひしに、唯ださめ/″\と泣くのみなり。再三再四問ひたる後《のち》に、答へて曰《い》ふやう、妾《わらは》は今宵この山のうしろまで行かねばならずと。何用あつて行くやと問ひければ、そこにて児を殺したる事あれば、こよひは我も共に死なむと思ひてなり。この言《ことば》を聞きて、さては前日の児殺《こころし》よなと心付きたれば、更に気味あしく、いかにもして振離して逃げんとすれど、狂女の力常の女の腕《かひな》にあらず、しばしがほどは或は賺《すか》しつ或はなだめつ、得意客は待ちあぐみてあらむに、いかにせばやと案じわづらふばかりなり。いかに言ふとも一向に聞き入れず、死なねば済まずとのみ言ひ募りて、捕へし袖を挽《ひ》きて、吾を彼の山中に連れ行んとす。もし愈々《いよ/\》死なむとならば独り行きても宜《よ》からずやと言へば、ひとりにては
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