来り臨みて人間の中《うち》にある時に、渺々《べう/\》たる人間眼を以て説明し得べからざるものを世に存在せしむるなり。
 吾人《われら》は堕《お》ちて世間にある事を記憶せざるべからず、出世間の出世間の事を行ふより、在世間の出世間の事を行ふの寧ろ大にして、真なる事を記憶せざるべからず。基督の教理も亦た茲に存す、彼は遁世を教へずして世にうち勝つことを教へたり、彼は世の大とするものを斥《しりぞ》けて小とし、世の小とするものを挙げて大とせり、彼は学者法律家等を責むるに偽善者の名を以てし、却《かへ》りて最も小額の義財を神に献ずるものを激賞したり、その斯く教へたるもの、要するに人間の中に存在する心は至大至重のものにして、俗眼大小の以て衡《かう》すべきにあらず、学問律法の以て度測すべきものにあらず、小善小仁の以て論ずべきにあらざるを示せしに外ならず。
 小善小仁は滔々たる天下之を為すに難きもの多からず、大善大仁はいかなる人にして始めて行ふを得むか。
 教会内にて、つまらぬ批評眼をもつて他の小悪小非を穿《うが》つものには、教会内の小善小仁すらも旌《あらは》し易からず、而して今日の教会の多数は斯くの如くな
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