、心を以て太虚となし、この太虚こそ真理の形象なりと認むる如き、又は陽明派の良知良能、禅僧の心は宇宙の至粋にして心と真理と殆《ほとんど》一躰視するが如きは、基督教の心を備へたる後に真理を迎ふるものと同一視すべからず。
以上は「心」に就きて説きたるまでなり、いでわれは是よりわが感得したるところを述て、心宮内の秘殿を論ぜむ。
聖経はエルサレムの神殿を以て神の座《おは》すところとせり、其神殿に聖所あり、至聖所あり、至聖所には祭司の長《をさ》の外《ほか》之に入ることを得るもの甚だ稀なりと伝ふ。われ惟《おも》へらく、人の心も亦た斯くの如くなるにあらざるか。心に宮あり、宮の奥に更に他の宮あるにあらざるか。心は世の中《なか》にあり、而して心は世を包めり、心は人の中《なか》に存し、而して心は人を包めり。もし外形の生命を把《と》り来つて観ずれば、地球広しと雖《いへども》、五尺の躰躯大なりと雖、何すれぞ沙翁をして「天と地との間を蠕《は》ひまはる我は果していかなるものぞ」と大喝せしめむ。唯だ夫れこの心の世界|斯《かく》の如く広く、斯の如く大《おほい》に、森羅万象を包みて余すことなく、而してこの広大なる心が
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