ば、われは始めに染汚《せんを》の慾情を以て入り来りしものも、後《のち》には極めて浄潔なる聖念に満たさるゝ様にならん事を願ふなり。
 バプテスマのヨハネは基督の為に道を備へんとて遣はされたり。道を備ふるとは何ぞ。曰く、人々を悔改《くいあらため》に導くなり。悔改とは何ぞ。曰く、不善に向ひたる霊性を善に向はしむるなり。
 不善の行為は適《たまた》ま不善の実象を現ずるに過《すぎ》ずして、心の上にあらはれたる一黒点に外ならず。不善の行為を廃めて善の行為をなすも亦た、心の上にうつりたる一白点に外ならず。共に心の上にあらはるゝものにして、心ありて後に善もあり不善もあり、心なければ何を悔改むるところとせむ。
 心こそ凡てのものを涵する止水《しすゐ》なれ。迷ふも茲《こゝ》にあり、悟るも茲にあり、殺するも仁するも茲にあり、愛も非愛も茲にこそ湛《たゝ》ふるなれ。ヨハネの所謂《いはゆる》悔改とは、即ち心を直《なほ》くするにあり、ヨハネの所謂道を備ふるとは、即ち心を虚《むなし》うするにあり、心を虚うする後にあらざれば、真理は望む事を得べからざればなり。基督教に於て心を重んずる事|斯《かく》の如し。唯だ夫れ老荘の
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