読者が為すところなり、心を以て基礎とし、心を以て明鏡とし、心を以て判断者となし、以て聖経に教ゆるところを行はんとするは、最近の思想を奉じ自由の意志に従ひて信仰を形《かたちづ》くるものなりけり。
 人世は遂に説明し得べからざるものなり、然らば人生を指導するものも亦《ま》た、遂に解釈し尽くす能はざる程の宝蔵にあらざれば、可なるところを知る能はず。数間の地を測るには尺度にて足るべし、天下の大を度《はか》るには、人造の尺度果して何の用をかせむ。もし聖経の教ゆるところ、単に消極的の殺快楽(或は克己)に止《とゞ》まらば、聖経も亦た古来幾多の思想界の階段の一となるの歴史上の価値を得るのみにして、止《や》まんのみ。
 或は利得の故に教会に結び、或は逆遇に苦しみて教理に帰依《きえ》す、是《かく》の如きは今日の教会にめづらしからぬ実状なり。もし夫れ人間の本性が全く教理を認めたるものならば、或は利得を取り或は帰依をなす元より自由にてあれど、苟《いやし》くも其発心の一瞬間に卑劣なる慾情の混り居らば、其教会の汚濁、実に思ふべきなり。然れども基督《キリスト》の本旨は善人を救ふにあらず、不善を善に回《か》へすにあれ
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