に出づ、何ぞ自らの心宮を軽んずるの甚しき。
洗礼を施すは悪《あし》きことにあらず、然れども其を以て基督の弟子となるに欠くべからざるの大礼となすは非なり、心を以て基督に冥交する時、彼は無上の栄ある基督の弟子なり、洗礼を施さゞる悪しきにあらず、然れども洗礼を施さゞるを以て直《たゞ》ちに基督の弟子となり了したりと思ふは大早計なり、凡《すべ》て心の基督に通じたるとき、即ち心が基督の水に浴したる時、再言せばパウロの所謂火の洗礼に遭ひたる時こそ、真に基督の弟子となりたるなれ、然り、心の奥の秘宮開かれて、聖霊の猛火其中に突進したる瞬時に於てこそ。
ナタナヱル無花果樹下《いちじくのきのした》に黙坐す、ナザレのイエス彼を見て、以て猶太人《ユダヤびと》の中《うち》に尤も硬直にして欺騙《きへん》なきものと思へり。後世の之を説くもの、ナタナヱルの黙思を論ぜずして、基督の威力のみを談ず。ナタナヱルを知るは基督なり、然れどもナタナヱルのナタナヱルたるは基督の関するところにあらず、彼が心の照々として天地に恥るところなきは、彼自らの力なり、彼を救ふと救はざるとは彼の関《あづか》り知らざるところなれど、救はるべき者
前へ
次へ
全16ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング