るを悲しむなり。夫れ小善小仁は、古へのパリサイ人|能《よ》く之を為せり、彼等は教会にて威厳を粧ひ、崇敬をあらはし、小悪小非行を慎しむ事、今の俗信仰にまさり、小善小仁を行ふ事、今の所謂基督教信者なるものに幾等《いくとう》か加ふるところありし、然るも基督は之を排して、蝮《まむし》の裔《すゑ》とまで罵《のゝし》りぬ。
 宗教の本意、豈《あ》に狭穿《けふせん》なる行為の抑制にあらんや。われは、教会の義財箱にちやら/\と響きさして、振り向きて傲《ほこ》り顔《がほ》ある偽善家を悪《にく》むと共に、行為の抑制を重んじて心の広大なる世界を知らざるものをあはれむ事限りなし。何事ぞ、人間を遇するに鞭を用ひて、其行住坐動を制せんとするが如きは。宗教豈斯の如きものならんや。
 心に宮あり、宮の奥に他の秘宮あり、その第一の宮には人の来り観る事を許せども、その秘宮には各人之に鑰《かぎ》して容易に人を近《ちかづ》かしめず、その第一の宮に於て人は其処世の道を講じ、其希望、其生命の表白をなせど、第二の秘宮は常に沈冥にして無言、蓋世《がいせい》の大詩人をも之に突入するを得せしめず。
 今の世の真理を追求し、徳を修するものを見るに、第一の宮は常に開《あ》けて真理の威力を通ずれど、第二の宮は堅く閉ぢて、真理をして其門前に迷はしむるもの多し。第一の宮に入るの門は広けれども、第二の宮の門は極て狭し。第一の宮に入りたる真理は、未だ以て其人を生かしむるものにあらず、又た死せしむるものにあらず、喝《かつ》、第一の宮に善根を種《たねま》き懺悔《ざんげ》をなすは、凡人の能はざるところにあらず、この凡人豈に大遠に通ずる生命と希望とを、いかにともするものならんや。福音何物ぞ、救何物ぞ、更生何物ぞ、是等の物を軽侮し、玩弄し、徒《いたづ》らに説き、徒らに談じ、徒らに行ひ、徒らに思ひ、第一の門までは蹈入らしめて第二の門を堅く鎖すもの、比々皆是れなるにあらずや。尤も笑ふべきは、当今の宣教師輩が「福音」の字句に神力ありと信ずる事なり。彼等は漫《みだり》に言《げん》を為して曰く、「福音の説かるゝところ必らず救あり」と、而して彼等は福音を説かずして、其字句を説く、自ら基督を負ふと称して、基督の背後に隠るゝ悪魔を負ふ、咄《とつ》、福音を談ぜんとするもの、何ぞ天地至大の精気に対して、極めて真面目なる者とならずや。其第一の宮を開きて、第二の宮
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング