を開かず、心あるも心なきに同じ。己れ寒村僻地より来り、国家の大に愛すべきを知らずして、叨《みだ》りに自利自営を教へ、己れ無学無識を以て自ら甘んじながら、人に勧誘するところ「学問」を退ぞけ、聖経のみを奉ぜよと謂ひて、以て我が学問界以外の小人に結ばんとし、己れ文学美術の趣味、哲学の高致を解せざるが故に、愚物を騙罔《へんまう》して文学を遠《とほざ》くべしと謂ふ、斯くして一国の愛国心をも一国の思想をも一国の元気をも一国の高妙なる趣味をも尽《こと/″\》く苅尽《かいじん》して、以て福音を布《し》かんとす、何すれぞ田園の沃質を洗滌し尽して、然る後に菓木を種《う》ゆるに異ならんや。心の奥の秘宮の門を鎖《とざ》して、軽浮なる第一宮の修道を以て世を救はんとするの弊や、知るべきなり。
道に入るは極めて至難とするところなり。道に入るは他の生命に入るものなるを記憶せざるべからず、道に入るはレゼネレイシヨンの発端なるを記憶せざるべからず。然るに今の世の所謂基督教会なるものを見るに、朝《あした》に入りたるもの夕《ゆふべ》に出で、出没常なく、去就定まりなし、その入るや入るべからざるに入り、其出づるや出づべからざるに出づ、何ぞ自らの心宮を軽んずるの甚しき。
洗礼を施すは悪《あし》きことにあらず、然れども其を以て基督の弟子となるに欠くべからざるの大礼となすは非なり、心を以て基督に冥交する時、彼は無上の栄ある基督の弟子なり、洗礼を施さゞる悪しきにあらず、然れども洗礼を施さゞるを以て直《たゞ》ちに基督の弟子となり了したりと思ふは大早計なり、凡《すべ》て心の基督に通じたるとき、即ち心が基督の水に浴したる時、再言せばパウロの所謂火の洗礼に遭ひたる時こそ、真に基督の弟子となりたるなれ、然り、心の奥の秘宮開かれて、聖霊の猛火其中に突進したる瞬時に於てこそ。
ナタナヱル無花果樹下《いちじくのきのした》に黙坐す、ナザレのイエス彼を見て、以て猶太人《ユダヤびと》の中《うち》に尤も硬直にして欺騙《きへん》なきものと思へり。後世の之を説くもの、ナタナヱルの黙思を論ぜずして、基督の威力のみを談ず。ナタナヱルを知るは基督なり、然れどもナタナヱルのナタナヱルたるは基督の関するところにあらず、彼が心の照々として天地に恥るところなきは、彼自らの力なり、彼を救ふと救はざるとは彼の関《あづか》り知らざるところなれど、救はるべき者
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