読者が為すところなり、心を以て基礎とし、心を以て明鏡とし、心を以て判断者となし、以て聖経に教ゆるところを行はんとするは、最近の思想を奉じ自由の意志に従ひて信仰を形《かたちづ》くるものなりけり。
 人世は遂に説明し得べからざるものなり、然らば人生を指導するものも亦《ま》た、遂に解釈し尽くす能はざる程の宝蔵にあらざれば、可なるところを知る能はず。数間の地を測るには尺度にて足るべし、天下の大を度《はか》るには、人造の尺度果して何の用をかせむ。もし聖経の教ゆるところ、単に消極的の殺快楽(或は克己)に止《とゞ》まらば、聖経も亦た古来幾多の思想界の階段の一となるの歴史上の価値を得るのみにして、止《や》まんのみ。
 或は利得の故に教会に結び、或は逆遇に苦しみて教理に帰依《きえ》す、是《かく》の如きは今日の教会にめづらしからぬ実状なり。もし夫れ人間の本性が全く教理を認めたるものならば、或は利得を取り或は帰依をなす元より自由にてあれど、苟《いやし》くも其発心の一瞬間に卑劣なる慾情の混り居らば、其教会の汚濁、実に思ふべきなり。然れども基督《キリスト》の本旨は善人を救ふにあらず、不善を善に回《か》へすにあれば、われは始めに染汚《せんを》の慾情を以て入り来りしものも、後《のち》には極めて浄潔なる聖念に満たさるゝ様にならん事を願ふなり。
 バプテスマのヨハネは基督の為に道を備へんとて遣はされたり。道を備ふるとは何ぞ。曰く、人々を悔改《くいあらため》に導くなり。悔改とは何ぞ。曰く、不善に向ひたる霊性を善に向はしむるなり。
 不善の行為は適《たまた》ま不善の実象を現ずるに過《すぎ》ずして、心の上にあらはれたる一黒点に外ならず。不善の行為を廃めて善の行為をなすも亦た、心の上にうつりたる一白点に外ならず。共に心の上にあらはるゝものにして、心ありて後に善もあり不善もあり、心なければ何を悔改むるところとせむ。
 心こそ凡てのものを涵する止水《しすゐ》なれ。迷ふも茲《こゝ》にあり、悟るも茲にあり、殺するも仁するも茲にあり、愛も非愛も茲にこそ湛《たゝ》ふるなれ。ヨハネの所謂《いはゆる》悔改とは、即ち心を直《なほ》くするにあり、ヨハネの所謂道を備ふるとは、即ち心を虚《むなし》うするにあり、心を虚うする後にあらざれば、真理は望む事を得べからざればなり。基督教に於て心を重んずる事|斯《かく》の如し。唯だ夫れ老荘の
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