間は遂《つひ》に何のたはれごとなるべきやを疑へり、然り、我が五十年の生涯に万物の霊長として傲《ほこ》るべき日は幾日あるべき、我は我を卑《ひく》うするにあらず、我自ら我を高うせんとするにもあらず、唯だ我が本我のいかに荘厳を飾らしむるも、遂に自らを欺《あざむ》くに忍びざるなり。
我は如何に禅僧の如くに悟つてのけんと試むるとも、我が心宮を観ずること甚深なればなるほど、我は到底悟つてのけること能はざるを知る、風流の道も我を誘惑する事こそあれ、我をして心魂を委《ゆだ》ねて、趣味と称する魔力に妖魅《えうみ》せらるゝに甘んぜしめず。常に謂《おも》へらく、人間はいかにいかなる高尚の度に達するとも、畢竟《ひつきやう》するに或種類の偶像に翫弄《ぐわんろう》せらるゝに過ぎず、悟るといふも、悟ること能はざるが故に悟るなり、もし悟るといふことを全然悟らざるといふ事に比ぶれば、多少は静平にして澹乎《たんこ》たる妙味ありと雖《いへども》、是も一種の階級のみ、人間は遂に、多く弁ぜざれば多く黙し、多く泣かざれば多く笑ひ、一の偶像に就かざれば他の偶像を礼す、一の獄吏に笞責《ちせき》せられざれば他の獄吏の笞責に遭ふ、これも是非なし、獄吏と天使とを識別すること能はざる盲眼をいかにせむ。
奇《く》しきかな、我は吾天地を牢獄と観ずると共に、我が霊魂の半塊を牢獄の外に置くが如き心地することあり。牢獄の外に三千|乃至《ないし》三万の世界ありとも、我には差等なし、我は我牢獄以外を我が故郷と呼ぶが故に、我が想思の趣くところは広濶《くわうくわつ》なる一大世界あるのみ、而して此大世界にわれは吾が悲恋を湊中《そうちゆう》すべき者を有せり。捕はれてこの牢室に入りしより、凡《すべ》ての記憶は霧散し去り、己れの生年をさへ忘じ果てたるにも拘《かゝ》はらず、我は一個の忘ずること能はざる者を有せり、啻《たゞ》に忘ずること能はざるのみならず、数学的乗数を以て追々に広がり行くとも消ゆることはあらず、木葉《このは》は年々歳々新まり行くべきも、我が悲恋は新たまりたることはなくしていや茂るのみ、江水は時々刻々に流れ去れども、我が悲恋はよどみよどみて漫々たる洋海をなすのみ、不思議といふべきは我恋なり。
もし我が想中に立入りて我恋ふ人の姿を尋ぬれば、我は誤りたる報道を為すべきにより、言はぬ事なり、言はぬ事なり、雷音洞主が言へりし如く我は彼女の三百幾つと数ふる何《ど》の骨を愛《め》づると云ふにあらず、何《ど》の皮を好しと云ふにあらず、おもしろしと云ふにあらず、楽しと云ふにあらず、我は白状す、我が彼女と相見し第一回の会合に於て、我霊魂は其半部を失ひて彼女の中《うち》に入り、彼女の霊魂の半部は断《たゝ》れて我|中《うち》に入り、我は彼女の半部と我が半部とを有し、彼女も我が半部と彼女の半部とを有することゝなりしなり。然《しか》れども彼女は彼女の半部と我の半部とを以《も》て、彼女の霊魂となすこと能はず、我も亦た我が半部と彼女の半部とを以《も》て、我霊魂と為すこと能はず、この半裁したる二霊魂が合して一になるにあらざれば彼女も我も円成せる霊魂を有するとは言ひ難かるべし。然るに我はゆくりなくも何物かの手に捕はれて窄々《さく/\》たる囚牢の中《うち》にあり、もし彼女をして我と共にこの囚牢の中にあらしめば、この囚牢も囚牢にあらずなるべし、否《い》な彼女とは言はず、前にも言へりし如く我が彼女を愛するは其骨にあらず、其皮にあらず、其|魂《たましひ》にてあれば、我は其魂をこの囚牢の中《うち》に得なむと欲《おも》ふのみ。
日光を遮断《しやだん》する鉄塀は比《ひと》しく彼女をも我より離隔して、雁《かり》の通ふべき空もなし、夢てふもの世にたのむべきものならば、我は彼女と相談《あひかた》る時なきにあらず、然れどもその夢もはかなや、始めに我をたばかりて、後《のち》にはおそろしき悪蛇の我を巻きしむるに終る事多し。眠りを甘《うま》きものと昔しの人は言ひけれど、我は眠りの中《うち》に熱汗に浴することあり。或時は、我手して露の玉に湿《うるほ》ふ花の頭《かしら》をうち破る夢を見、又た或時は、春に後《おく》れて孤飛する雌蝶の羽がひを我が杖の先にて打ち落す事もあり、かつて暴《あ》らかりしものを、彼女に会ひてより和らげられし我が心も、度々の夢に虎伏す野に迷ひ、獅子|吼《ほ》ゆる洞《ほら》に投げられしより、再び暴《あ》れに暴れて我ながらあさましき心となれり。眠りはしかく我に頼めなき者となりしかど、もし現《うつゝ》の味気なきに較ぶれば、斯かるゝ丈も慰めらるゝひまあるなり。
現《うつゝ》に於ける我が悲恋は、雪風|凛々《りん/\》たる冬の野に葉落ち枝折れたる枯木のひとり立つよりも、激しかるべし。然り、我は已《す》でに冬の寒さに慣れたり、慣れしと云ふにはあらね
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