我牢獄
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)然《しか》れども

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天性|怯懦《けふだ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)拘々《こう/\》
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 もし我にいかなる罪あるかを問はゞ、我は答ふる事を得ざるなり、然《しか》れども我は牢獄の中《うち》にあり。もし我を拘縛《こうばく》する者の誰なるを問はゞ、我は是を知らずと答ふるの外なかるべし。我は天性|怯懦《けふだ》にして、強盗殺人の罪を犯すべき猛勇なし、豆大の昆虫を害《そこな》ふても我心には重き傷痍《しやうい》を受けたらんと思ふなるに、法律の手をして我を縛せしむる如きは、いかでか我が為《な》し得るところならんや。政治上の罪は世人の羨《うらや》むところと聞けど我は之を喜ばず、一瞬時《いちじ》の利害に拘々《こう/\》して、空しく抗する事は、余の為す能《あた》はざるところなればなり。我は識《し》らず、我は悟らず、如何《いか》なる罪によりて繋縛の身となりしかを。
 然れども事実として、我は牢獄の中《うち》にあるなり。今更に歳の数を算《かぞ》ふるもうるさし、兎《と》に角《かく》に我は数尺の牢室に禁籠《きんろう》せられつゝあるなり。我が投ぜられたる獄室は世の常の獄室とは異なりて、全く我を孤寂に委せり、古代の獄吏も、近世の看守も、我が獄室を守るものにあらず。我獄室の構造も大に世の監獄とは差《たが》へり、先づ我が坐する、否坐せしめらるゝ所といへば、天然の巌石にして、余を囲むには堅固なる鉄塀あり、余を繋ぐには鋼鉄の連鎖あり、之に加ふるに東側の巌端には危ふく懸れる倒石ありて我を脅《おびや》かし、西方の鉄窓には巨大なる悪蛇を住ませて我を怖れしめ、前面には猛虎の檻《をり》ありて、我室内に向けて戸を開きあり、後面には彼の印度あたりにありといふ毒蝮《どくまむし》の尾の鈴、断間《たえま》なく我が耳に響きたり。
 我は生れながらにして此獄室にありしにあらず。もしこの獄室を我生涯の第二期とするを得ば、我は慥《たし》かに其一期を持ちしなり。その第一期に於ては我も有りと有らゆる自由を有《も》ち、行かんと欲するところに行き、住《とゞ》まらんと欲する所に住まりしなり。われはこの第一期と第二期との甚《はなは》だ相懸絶する者なる事を知る、即ち一は自由の世にして、他は牢囚の世なればなり、然れども斯《か》くも懸絶したるうつりゆきを我は識らざりしなり、我を囚《とら》へたるものゝ誰なりしやを知らざりしなり、今にして思へば夢と夢とが相接続する如く、我生涯の一期と二期とは※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]々《ぼう/\》たる中《うち》にうつりかはりたるなるべし。我は今この獄室にありて、想ひを現在に寄すること能はず、もし之を為すことあらば我は絶望の淵に臨める嬰児なり、然れども我は先きに在りし世を記憶するが故に希望あり、第一期といふ名称は面白からず、是を故郷と呼ばまし、然り故郷なり、我が想思の注ぐところ、我が希望の湧くところ、我が最後をかくるところ、この故郷こそ我に対して、我が今日の牢獄を厭はしむる者なれ、もしわれに故郷なかりせば、もしわれにこの想望なかりせば、我は此獄室をもて金殿玉楼と思ひ了《な》しつゝ、楽《たのし》き娑婆《しやば》世界と歓呼しつゝ、五十年の生涯、誠に安逸に過ぐるなるべし。
 我は我天地を数尺の大さと看做《みな》すなり、然れども数尺と算するも人間の業《わざ》に外ならず、之を数万尺と算ふるも同じく人間の業なり、要するに天地の広狭は心の広狭にありて存するなり、然るに怪しくも我は天地を数尺の広さとして、己れが坐するところを牢獄と認む、然り牢獄なり、人間の形せる獄吏は来らずとも折々に見舞ひ来るもの、是れ一種の獄吏に外ならず、名誉是なり、権勢是なり、富貴是なり、栄達是なり、是等のもの、我に対する異様の獄吏にてあるなり。
 彼等は我に対しては獄吏と見ゆれども、或一部の人には天使の如くにあるなり、彼等が人々を折檻《せつかん》する時に、人々は無上の快楽を感ずるなり、我眼《わがめ》曇れるか、彼等の眼|盲《し》ひたる乎《か》、之を断ずる者は誰ぞ。
 デンマルクの狂公子を通じて沙翁《さをう》の歌ひたる如くに、我は天と地との間を蠕《は》ひめぐる一痴漢なり、崇重《そうちよう》なる儀容をなし、威厳ある容貌を備へ、能《よ》く談じ、能く解し、能く泣き、能く笑ふも、人
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