、情は闘争すべき質を以て生れたる元素なれども、其恋愛の域に進む時は、全然平和調美の者となり、知らず知らず一女性の中に円満を画かしむ、情人相対する時は天地に強敵なく、不平も不融和も悉く其席を開きて、真美の天使をして代《かはつ》て坐せしむ。少《わか》き思想の実世界の蹂躙《じうりん》する所となる事多し、特に所謂詩家なる者の想像的脳膸の盛壮なる時に、実世界の攻撃に堪《た》へざるが如き観あるは、止むを得ざるの事実なり。況《いは》んや沈痛凄惻人生を穢土《ゑど》なりとのみ観ずる厭世家の境界に於てをや。曷《いづく》んぞ恋愛なる牙城に拠《よ》る事の多からざるを得んや、曷んぞ恋愛なる者を其実物よりも重大して見る事なきを得んや。恋愛は現在のみならずして、一分は希望に属する者なり、即ち身方《みかた》となり、慰労者となり、半身となるの希望を生ぜしむる者なり。夫れ厭世家は此世に属する者とし言はゞ名誉にもあれ、利得にもあれ、王者の玉冠にもあれ、鉄道王の富栄にもあれ、一の希望を置くところあらざるなり、故にこの世の希望と厭世家とは氷炭相容れざるの中なる可し。然るに恋愛なる一物のみは能く彼の厭世家の呻吟《しんぎん》する胸
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