奥に忍び入る秘訣を有し、奇《く》しくも彼をして多少の希望を起さしむる者なり。情の性は沈静なるを得ざる者なり、其の一たび入るや人の心を攪乱するを以て常とす。況《ま》してや平生激昂しやすき厭世家の想像は、この誠実なる恋愛に遭ひて脆《もろ》くも咄嗟《とつさ》の間に、奇異なる魔力に打ち勝たれ、根もなき希望を醸《かも》し来り、全心を挙げて情の奴とするは見易き道理なり。
恋愛は一たび我を犠牲にすると同時に我れなる「己れ」を写し出す明鏡なり。男女相愛して後始めて社界の真相を知る、細小なる昆虫も全く孤立して己が自由に働かず、人間の相集つて社界を為すや相倚托し、相抱擁するによりて、始めて社界なる者を建成し、維持する事を得るの理も、相愛なる第一階を登つて始めて之を知るを得るなれ。独り棲《す》む中は社界の一分子なる要素全く成立せず、双個相合して始めて社界の一分子となり、社界に対する己れをば明らかに見る事を得るなり。
男女既に合して一となりたる暁には、空行く雲にも顔あるが如く、森に鳴く鳥の声にも悉く調子あるが如く、昨日《きのふ》といふ過去は幾十年を経たる昔日《むかし》の如く、今日《けふ》といふ現在は幾代《
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