りし時の霊魂が負ふたる債《おひめ》を済《かへ》す事能はずと。恋愛は各人の胸裡《きようり》に一墨痕を印して、外《ほか》には見ゆ可からざるも、終生|抹《まつ》する事能はざる者となすの奇跡なり。然れども恋愛は一見して卑陋《ひろう》暗黒なるが如くに其実性の卑陋暗黒なる者にあらず。恋愛を有せざる者は春来ぬ間《ま》の樹立《きだち》の如く、何となく物寂しき位地に立つ者なり、而して各人各個に人生の奥義の一端に入るを得るは、恋愛の時期を通過しての後なるべし。夫れ恋愛は透明にして美の真を貫ぬく、恋愛あらざる内は社会は一個の他人なるが如くに頓着あらず、恋愛ある後は物のあはれ、風物の光景、何となく仮を去つて実に就き、隣家より我家に移るが如く覚ゆるなれ。
 蓋《けだ》し人は生れながらにして理性を有し、希望を蓄へ、現在に甘んぜざる性質あるなり。社会の※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]縁《いんえん》に苦しめられず真直《まつすぐ》に伸びたる小児は、本来の想世界に生長し、実世界を知らざる者なり。然れども生活の一代に実世界と密接し、抱合せられざる者はなけむ、必ずや其想世界即ち無邪気の世界と実世界即ち浮世又は娑婆《し
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